『信仰を伝えるということ』
創世記の後半はヨセフ物語とも言える。そのヨセフ物語が前章で始まり、兄たちはヨセフをエジプトに売り飛ばしてしまった。その主犯格がユダであった。
さあいよいよ、ヨセフ物語の佳境へー、というところで39章は突然、兄ユダの物語に変わってしまう。
39章のストーリーは過激だ。ユダは家族を離れ、異郷に住んだ。そこでカナン人の妻をめとった。
アダムが神さまの御顔を避けたように、ユダもヨセフを貶めた罪意識から逃げて、異国に住んだということだ。
そこで3人の息子が産まれ、長男に嫁タマルを迎えた。
「しかし、ユダの長子エルは主の目に悪しき者であったので、主は彼を殺された。」(7節)
ユダは亡き長男の嫁、タマルを次男の妻にした。
「兄のために子孫を残すようにしなさい。」(8節抜粋)
次男は気に入らず、タマルと寝ても子ができないようにした。そのことも主の目には悪しきことだったので、次男も殺された。
長男、次男が殺されたのはタマルのせいだと疑ったユダは、三男にタマルを近づけないよう、実家に帰してしまった。
悲劇の原因はタマルなのだろうか。否。ユダが神さまから離れたままで、きっと息子たちに神さまのことを教えなかったのだろう。ユダは自分勝手に判断するばかりで、御心を聞こうとしていない。
「兄のために子孫を残すようにしなさい。」というのは本来、信仰の継承をする、ということではないのか。
聖書によく出てくる系図は、罪人である人たちがつまずきながら、脱線しながら、悔い改めて、子孫に信仰を受け渡してきた証しだ。聖い血筋など、一つもない。その、罪深い血筋を選んで、イエスさまは人として生まれてくださった。私たちの罪を負って、十字架にかかってくださった。
ユダの長男、次男はあわれだ。でも男たちの間で、いいように使いまわされるタマルはもっとあわれだ。
時が経て、ユダの妻が死んだ。喪が明けて祭りの広場に出かけたユダは遊女を見つけた。実は変装しているタマルだったが、ユダは気づかず、タマルを買い、寝る。
タマルは巧妙な罠を仕掛け、義父をだまして子を宿した。復讐なのだろうか。そうでもあるけれど、神さまの深い計画の中には折り込み済みだったのではないだろうか。
イエスさま誕生につながる、タマルとその子パレス(ペツレ)とザラの名は、マタイ1:3の系図に登場する。主がタマルの行いを受けとめて用いてくださったのだ。実に神さまは、良いことも悪いことも益に変えてくださるお方!
「私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。」(申6:6,7)
御ことばで祈ります。なにげない生活の中でこそ、若い人たちに神さまの存在を表し、伝えられるよう導いてください。
イエスさまのお名前で祈ります。アーメン
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