『事の善悪を論じない』
私たちがそうであるように、聖書には完全無欠の人など一人も登場しない。皆、欠けのある土の器なのだ。
神さまはアブラハムへの約束として、後継ぎは兄のエサウではなく弟のヤコブを選ばれた。ヤコブは果たして、神さまにふさわしい人として、霊的成長を遂げるのだろうか。
31章で、ヤコブの霊的旅路は転機を迎える。
兄のエサウを騙して逃亡したヤコブが頼ったのは、叔父のラバンのところだった。叔父の次女ラケルを愛したヤコブは、叔父のもとで14年間タダ働きをして、やっと結婚できた。その後報酬を得るため、したたかに財を築く。
すると叔父や叔父の息子達が警戒し、態度を変えはじめる。
「主はヤコブに言われた。「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」」(3節)
叔父ラバンは、ヤコブの結婚願望を利用して、タダ働きをさせた。ヤコブも承知して無報酬で働いた。しかし愛するラケルと結婚できると一転、叔父に故郷に帰りたい、自分の家が欲しいと言い出し、巧妙に交渉して蓄財した。
叔父もヤコブもどっちもどっち、打算合戦である。
一触即発の険悪さを見かねて、神さまはヤコブに、この地を離れて父の国に帰りなさいと命じられた。神さまはこのタイミングをじっと待っておられたのだ。
私たちもなにかで険悪になった時、その場を、そのできごとから一旦離れて距離を置くことは懸命だ。
「悪しき者でも、自分がしている悪事から立ち返り、公正と義を行うなら、彼は自分のたましいを生かす。」(エゼキエル18:27)
離れて距離を置く、「あなたの父たちの国に帰りなさい」というのは、故郷に帰るという意味以上に、神さまの御もとに立ち返るということだと思う。
ヤコブは神さまに従って、こっそり家出をし、父イサクのいるカナンをめざした。
しかし叔父ラバンは気づき、追手とともにヤコブに追いついた。またもや一触即発か!?
神さまは、異邦人のラバンにも語りかけるお方だ。
「あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい。」(24節抜粋)
善悪、どっちが正しいかを主張すると、争いは必ずエスカレートしてしまう。
ラバンは神さまの教えを守り、ヤコブの裏切りを責めるでもなく、語りかける。なぜ出発の門出を祝わせてくれなかったのか、別れの挨拶をさせてくれなかったのかと、心情を吐露する。途端に素直になるヤコブ。
神さまの教えに従えば、骨肉の争いの場面も、心通わせる和解の場面に変えられる。
人と人の間にイエスさまがいてくださることを忘れなければ、不要な争いはなくなるはず。
「神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。」(Ⅱコリント5:19)
御ことばで祈ります。アーメン
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