『御口の息』
私たちの日々の祈りや、教会に集って礼拝を捧げるということが、どれだけ密接に「終末」や「再臨」と結びついているかを黙想させてくれる2章だった。そして、テサロニケの人たちと同じように、今の私たちも「主の日は近い」患難の中にいる。
「私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して」(1節抜粋)
「主のみもとに集められる」というのは、携挙の時だけを指しているのではなく、主を賛美するために教会に集うクリスチャンの営みをも含んでいると思う。
ともに集まって礼拝を捧げる時、その中心に、イエスさまの臨在を感じる時、神の王国はすでに到来しているのだから。
パウロは「主の日は近い」ことを、心を尽くして語ったけれど、テサロニケ教会の人々は、終末に関してのみ、異常な好奇心で詮索し、憶測や誤解が生じてしまった。
それを正すためにパウロは、根気よく諭す。
どんな患難があっても「主イエスは彼を御口の息をもって殺し」(8節抜粋)、と。イエスさまは「口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。」(イザヤ11:4抜粋)お方。だから真実の御ことばだけを信頼して従っていこうと導く。そして何度も親愛を込めて呼びかけ、恵みの御業を伝える。
「しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。そのため神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。」(13、14節)
パウロが、テサロニケの兄弟たちが、御ことばを伝える宣教の召しに選ばれたということは、イエスさまの栄光にあずかること。それはものすごく深い恵みなのだと説いてくれる。
これが使徒パウロの、命もいとわない宣教のキモだ。
暗記して愛唱したいパウロのことばで祈ります。
「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
苦難も、苦悩も、迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も、どんな患難もキリストの愛から引き離すことはないということを、私たちは知っています。私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者であることを信じます。
それを感謝して、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン
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