『神は彼らを祝福して、彼らの名を「人」と呼ばれた』 アイゾン直子
「アダムの歴史の記録」と題されたこの章では「神の似姿」に造られた男と女が、神に祝福された「人」(アダム)と呼ばれるものであったこと、そしてそこから始まる系図について書かれています。
神の祝福であった人は、アダムによって罪を宿すものとなりますが、それでも神は人を「神の似姿」として造り続けてくださっていることが、5章3節の記述から知ることができます。
「アダムは百三十年生きて、彼の似姿として、彼のかたちに男の子を生んだ。彼はその子をセツと名付けた、」
アダムが神の似姿として造られたように、セツもまた神の似姿として造られました。しかしそのかたちは、神のかたちではなく、罪を宿すアダムのかたちに生まれました。それによって死という呪いもまたアダムから引き継ぐことになります。「こうして彼は死んだ」と言う記述がそのことを指し示しています。ただし唯一この記述のない人がいます。エノクです。彼は神とともに歩み、その信仰によって死を見る前に天に移されました(創世記5:23、へブル11:5)。
私たちは「神の似姿」に造られましたが、では具体的に何を以って人は神の似姿に造られたと言えるのでしょうか。それは人と他の被造物との違いから見つけることが出来ます。生まれながらに言葉や感情を与えられているのは人間だけです。さらに人間には知性や意志、霊性が与えられています。霊性とは神を認識する能力のことです。これらの性質は神ご自身の性質であり、それらはそのまま人間のみに与えられています。それゆえ、私たちは神の似姿に造られたと言えるのです。
そのように神の似姿として造られた人が、罪人と呼ばれる者になってしまった原因はアダムによる神への反抗でした(創世記3:1‐13)。
私はクリスチャンになって間もない頃、創世記を読んで、もしアダムが神に対して悔い改めていたなら、自分たちは罪人にならないで済んだのだろうかと質問したことがあります。答えは「さあ、どうでしょうか」と言ったものでしたが、今思えばそのような質問は愚問であったなと思います。全知全能である神が、アダムが罪を犯すことを知らなかったわけはないのです。すべてを神はご存じなのです。その上でご自身の似姿に造られた人を愛し、選択肢を与えてくださったのです。選ぶ権利が与えられているということは、その選びに対する責任が生じますが、それは神ご自身も同じことです。ただし神の場合、その選びに間違いはないということです。
その神の選びが次の系図の聖句に繋がります。アダム→セツ→エノシュ→ケナン→マハラルエル→ヤレデ→エノク→メトシェラ→レメク→ノアと、ノアまでの系図に留まっています。理由は、ノアの洪水を境にすべては一掃され、神のご計画が大きく動く時です。この系図によって私たちは、アダムの罪と呪いがどのようにして広がっていったのかを知ることができますが、同時に、神が創世記3:15で約束された「女の子孫」に連なる系図について知ることもできます。ルカ3:23‐38には更に詳しい系図が書かれています。
これらの系図を詳しく学んでいて興味深かったことは、エノクが預言者であったということでした(ユダ14‐15)。エノクにはメトシェラと言う子が生れますが、彼の名前の意味は「槍の人、彼が死ぬとその槍は送られて来る」という意味があり、その名の通り、彼が死んだ年にノアの洪水が起こっているということです(ハーベストタイム創世記シリーズ参照)。
聖書には読むのが苦しくなる系図の箇所がありますが、それらが示される時は神のご計画が大きく動く時と考えると、読むのも楽しくなるかと思います。聖書はすべて神の霊感によって書かれてあります。何一つ無駄な箇所はないということを改めて確認することができた学びでした。
祈り:愛する天のお父さま。アダムから始まる系図を幾度も読みながら、そこにある神の悲しみを見る思いがしました。私自身、子どもたちに継承してもらいたくない性格があります。しかし、時に私と同じ性格を彼らの内に見るとき、私はとても悲しい気持ちになります。そのように今も罪に悔いる私の心を知っておられる神は、子どもたちが私と同じ過ちに進まないよう、愛し守ってくださっていることに感謝いたします。あなたの栄光のために、私が犯した過ちさえも用いることを望まれますなら、私はそれらをもって主イエスの福音を証ししたいと思います。恐れることなく、主と共に歩んでいくことが出来ますよう、お導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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