『主を尋ね求めよ』
2章では、ペリシテやモアブとアンモンへのさばきの預言や、エチオピアとアッスリアへの審判の預言が記されている。
だけど預言者は、神さまの怒りだけを語ることはしない。
「主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。」(3節抜粋)
どんな人にも、どんな罪にも、それでもなお、神さまは救いの手を差し伸べてくださることを伝えたいのだ。
私たちの神さまは、滅ぼす神ではなく救いの神さまなのだから。
イエスさまは語られる。
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:17)
パウロはテモテの手紙で、
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。」(一1:15抜粋)と証し、ローマ人への手紙の中では、
「主イエスは、私たちの背きの罪ゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(4:25)と伝えた。
また、「尋ね求めよ」と、動詞を重ねて強調したいのは、神さまは、私たちの声を聞いてくださる方だということだ。また神さまは、私たちと深く交わり、つながりたいと願っておられる方なのだ。
私たちはホモ・レギリオース、神に応答する者として造られているのだから。
「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」(エペソ2:10)
イエスさまによって生まれ変わった私たちは、以前のようにもはや罪に安住していたくはない。聖霊さまの助けを得て、かつてはさほど悪いと感じなかった肉の行いも、自然と嫌悪して改めるようになるのだ。そしてもっと自覚的に神さまと応答したくなる。
神さま、イエスさまの十字架と復活を感謝します。どうか謙遜に、熱心に主を尋ね求めることができますよう私を導いてください。良い行いに歩めるよう励ましてください。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン
Comments