『義の太陽』
他の預言書と違い、マラキ書1章から3章までは、神と民との対話形式で記されている。でも対話が成立していない。神の語りかけに対して、民は逆質問するばかり。反抗的というか、開き直った感じなのである。神の愛への不信、唯一の神への不義、傲慢さ‥‥。神さまとの分断である。
最後の4章で、それでもなお神さまは、悔い改めた者に対し、愛の手を差し伸べる。
「しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。」(4:2)
義の太陽とはイエスさまのことだ。ハレルヤ! そして、さらに約束してくださる。イエスさまの十字架が、分断を回復し、神さまと和解させてくださると。
「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。」(4:6)
旧約聖書は、アダムとエバが、「神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した」(創3:8)と、神さまの御顔を避ける罪から始まっている。
新約聖書は、御国で「神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る」(黙22:3、4)で結ばれている。
御顔を避けるか、御顔を仰ぎ見るか。父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせるというのは、神さまと自分が顔と顔を合わせることだ。顔を見つめて応答して交わるのだ。
私たちは御顔を避ける、弱さを持っている。罪人としてのキズも持っている。それでも、そのありのままの弱さと罪深さのままで、御顔を仰ぎ見ると、神さまは愛だけで応えてくださる。私たち人間は、神さまに人格的に応答するよう創られているのだから。
応答し、交わり、いつもイエスさまを見て、イエスさまと共にいることで、私たちはイエスさまの似姿になっていくことができる。
それがクリスチャンの歩みだと、イエスさまは今も語ってくださっている。感謝します。
今日で旧約聖書の黙想が終わります。ここまで導き、励ましてくださってありがとうございます。また新たな心で御ことばを聞くことができますよう、必要を満たしてください。
イエスさまのお名前で感謝して祈ります。アーメン
追記:上記、2節の御ことばは「子牛のように」という賛美で、ほんとうに子牛が跳ねるように喜び歌われています。
Comments