「真の断食」
自分は我慢が足りないのか、断食するのは苦手。でも自分の友人が勧めるのは断食ではなくダイエットなので試してみた。それは夕食を早めに食べて翌日の朝食を抜き、昼まで我慢、空腹感がある時に人は体内に溜まった脂肪を使い出すので身体が軽くなるという。残念ながら自分は三日坊主で続けられなかったが...
さてこの7章では、主の求められる真の断食とは何かが問われている。この背景は、すでにユダヤ民族はエルサレムに帰還して、これから第二神殿を建てようとしている時期だ。今まで70年間にわたってバビロン捕囚の中で、エルサレム神殿が崩壊した、嘆きの断食をしてきたけれど、第二神殿が代わりに建てられようとしているこの時期に、今までの嘆きの断食は必要なくなったのではないのか? という質問に対して、万軍の主のことばがあったのです。
この嘆きで連想するのは、エルサレムの嘆きの壁です、向かって左側は男性用、右側が女性用、こうやって分けるのは、祈りの時に女性が隣にいると気が散ってしまうからだと言われています。壁に向かって祈っている内容は、神の律法トーラーを繰り返しながら、救い主を求め、神殿を求め、神に守られ、神と一体になるためにキッパーをかぶり、左腕に革のベルトを12回巻いてみたりしている。多くのユダヤ人はクリスチャンに理解が足りない、ユダヤの小学校でクリスチャンについて教える内容は、クリスチャンの信じるイエスは確かにユダヤ人であったが、その教えをパウロという人が解釈したパウロ教だと教えているそうだ。
話を戻して、果たして真の断食とは何か、自分の内にある肉の欲望を抑えて主の教えを思い起こす事なのか。主イエスは、律法の中ではるかに重要なものを律法学者に伝えていると思うのです。
マタイ23章23節「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。」
主イエスは、何が本当の律法の精神かを伝えられた。ゼカリア7章9〜10節『万軍の主はこう言われる。「真実のさばきを行い、誠意とあわれみを互いに示せ。やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者を虐げるな。互いに対して、心の中で悪を企むな。」』
形だけの断食、祈り、献金、奉仕に対して、それは本当にこのわたし(主)のためにしたのか?自分たちのためではなかったか? と心の拠り所を問われているのが7章ですが、それでもユダヤの民は聞く耳を持たずにおりました。
続いて11節「ところが、彼らは拒んでこれを聞こうとせず、肩を怒らせ、その耳を鈍くして聞き入れなかった。」
これはユダヤの民だけの話ではありませんね、日本の民はどうでしょう、世界の民でも主イエスを受け入れずに拒んでいるではありませんか。
ところがこれは神の知恵なんだと聖書は語るのです。
コリント人への手紙第一 1章21節「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通じて、信じる者を救うことにされたのです。」
神の御子である主イエスが私たちのために十字架にかかって下さった、しかも復活されてもう一度来られるという福音は、人間の知恵から見ると確かに、全く論理的に理解する事さえ出来ない、愚かな話に聞こえる事に間違いありませんね、自分も昔は、何という出鱈目の話と思っておりました。私たちの宣教の結果ではなく、聖霊の力が働く時に初めて目が開かれるのです。
嘆きの壁で祈っている正統派ユダヤ人の多くの仕事は、律法の学びで生活のための仕事はされていないそうです。その為に政府は援助を与え、税金の免除など与えているそうです。しかし逆に、その制度を利用して高級マンションに住み、贅沢に暮らす正統派も居るとのこと。
主は私たち全てに今でも語られています。「教会に奉仕する事も重要、祈祷も断食も大切、でも最も重要な事はこの世で苦しんでいる、やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者を憐れみ助けていますか? 心の中で悪事を企んでいませんか?」とゼカリヤを通じて問いかけられているのです。
祈り
どうか私たちが主の教えに従い、憐れみを持って、謙虚な気持ちで多くの恵まれない方々の助け人となり、喜びの中で助け合うことが出来ますように、私たちを導き下さい。
この身体も、持っている財産も全てが自分のものではなく、主から預かっている物だと自覚できれば、惜しげもなく主のためにお渡しすることができるようになりますように、私の心を整えて下さい。 アーメン
Comentários