ミカ書 3章
主の公義「正義」
エルサレムを訪問して、まず訪ねたのが大祭司カヤパの私邸、今ここには丘の斜面に建てられたパウロの主を3度否定した記念の鶏鳴教会が建っている。ゲツセマネで捕えられた主イエスが最初に連れてこられた場所で、捕えられた身の主は、ここでニワトリが鳴く明け方まで地下の倉庫にある、空の貯水槽に縛られていた。その洞穴に立って、主がどの様な思いだったかを瞑想した。大祭司達は、神殿の庭で商人達が出店を出すのを許して、両替商やら、生贄の認定などから場所代を取って、個人的に莫大な利益を得ていた。主イエスが宮清めをしたのは背後で操る悪徳宗教リーダーに対する怒りがあった。彼らは自分の利益を優先させて、神の公儀、翻訳によっては正義から遠く離れていた。それでも主イエスは天なる父に彼らを赦してあげてください、何をしているのか判らないのです、と祈ったのだろうか。
預言者ミカの時代もイスラエルの家の首領達は、自分達の利益をまず先に考えていたのであろう、彼らは遠く神の公儀、正義から離れてしまった。旧約時代には、主の恵み、愛よりも、神が聖であること、その神に選ばれた民も聖である事が強調されている。
9節「これを聞け。 ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公義を忌みきらい、あらゆる正しいことを曲げている。」
私達は主の祈りで「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります、確かに天では神の聖なる、みこころに全てが従って動いている。その天の様に神のみこころである聖が、この地でも従われますようにと願う。しかしそれは裏を返せば、この世ではみこころがなされていないからだ。みこころに従われていないのがこの世の現実だ。それは、この世に満ちている罪にある。そしてこの罪の源流をたどってみると、私達の心の中心に、王座にどっかりと座っている事に気付かされる。王座に座るのは、主ではなくて、自分自身である事がハッキリと見える。神が中心ではない。
でも自分が中心で何が悪い、誰にも迷惑をかけている訳ではない、まず自分が幸せにならないと、他の人に分け与える事が出来ないではないか?正直になって自問する場合もあるでしょう。何故、自分の事を先に考えて悪いのだろうか。聖書にはこう書いてあります。
マタイ6:24「だれも、二人の主人に仕えることはできません。」神に仕える事を優先させるか、自分の利益、富に仕える事を優先させるか、どちらもということは出来ないと聖書は指摘しています。
預言者ミカは、神から遠く離れて汚れきったしまった、ユダヤの民、特に南王国ユダの指導者たち、祭司達や偽のみことばを預言して民を惑わす者達に対して、神の公儀、正義から離れているための裁きを伝えています。
もしも預言者ミカが今の私達の世に現れたとしたら、なんと言われるでしょうか?
洗礼を受けて、神の子とされたのに、未だあなたの心の王座を開け渡していないのかと問われているのではないでしょうか。
祈り
どうか自分自身を心の王座に置いて考え、行動してしまいます私をお赦し下さい。 十字架の主を思い、その重い罪への贖いを心に刻み、主が私の心の御座にお座りになりますように導きください。アーメン
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