ピリピ人への手紙 4章
『いつも主にあって喜びなさい』 アイゾン直子
ピリピ人への手紙は、エペソ人への手紙やコロサイ人への手紙、そしてピレモンへの手紙と同じく、パウロがローマの獄中から書いた手紙です。しかし彼の場合、獄中と言っても、牢屋の中で鎖に繋がれていたわけではなく、番兵付きでしたが、一人で住むことが許され、また訪問客が出入りする自由も与えられていたと言います。パウロは獄中にてキリスト者迫害の暴君と呼ばれたローマ皇帝ネロによる尋問を待っている間、これらの手紙を書きました。そのような身の上であったにも関わらず彼は、「いつも主にあって喜びなさい、もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ4:4)とピリピ人たちに教えました。
主にあって喜ぶには、主への全き信頼が必要です。たとえ状況がどんなに最悪であっても、その背後には神の御手が働いていて、必ずや神の栄光となることを信じて疑わないなら、そこには喜びが生じます。パウロは、彼の身を案じるピリピの人たちに対して、主にある喜びが取り去られないよう、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ4:6‐7)と教えます。
主への信頼が薄れる時、人は思い煩います。見えない明日におびえてしまうのです。人間がそのような弱い存在であることを主が知っていてくださるように、サタンもそのことをよく知っています。ここでは、ピリピの人たちのパウロに対する不安をサタンは利用し、思い煩わせて神から引き離そうとしているのです。
思い煩いはサタンの恐ろしい誘惑だと思います。小さな不安の種をどんどん成長させて、絶望の淵に立たせようとします。私自身、小さな不安があっという間に巨大な不安になったことがありましたが、その時に助けられたみことばは、「馬をふやしてはならない」、と書かれた聖句でした(申命記17:16)。
これはモーセの律法のひとつですが、戦いに必要と思われる馬をふやしてはならない、と主が命じたのです。普通に考えれば意味不明ですが、当時は神政政治、つまり神を王としていましたから、すべての戦いは主の戦いでした。ならば、過剰な数の馬は必要ないのです。過剰に馬を持てば、民は神を必要としなくなります。不信仰の種となるものを、主は持たせてはくれないのです。
思い煩いは不信仰の種となります。聖書には、思い煩うな、という教えがたくさん出てきますが、それはきっと、サタンの格好のエサだからだと思います。パウロは、思い煩うのではなく、自分の願い事を神に知っていただきなさい、と教えます。つまり、悩むのではなく、どうしたいのか、どうなることを願うのかを神に知っていただきなさい、というのです。そうすれば、全知全能なる神の平安があなたを守る、というのです。これは、聖霊を心に宿す信者にしか理解することのできない知恵であり、特権であると思います。
パウロ自身、明日のわが身を知るすべなどない毎日であったと思います。私なら、簡単に思い煩って絶望の淵にいたと思います。しかし、彼の場合は違いました。彼は、彼の肉体はもはや意味を成していないことを知っていました。そのことは、「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)ということばに集約されていると思います。彼は、この世に属してはいなかったのです。彼は、自分に用意されている御国での生活を思い、喜んでいたのです。
いつの時代にあっても、目に見える状況は、人の心を動揺させます。しかし、パウロから学びたいと思います。「いつも主にあって喜びなさい、もう一度言います。喜びなさい」(ピリピ4:4)。クリスチャンには、御国の住まいがすでに用意されています。そこには悲しみはありません。あるのは喜びだけです。厳しい世の中をまだもう少しの間、生きていかなければなりませんが、主の日は近いのです。今日という日を精一杯、喜びに満ちて過ごしたいと思います。
祈り:愛する天のお父さま。パウロ自身の体験からたくさんの学びが与えられたことを心より、感謝いたします。イエスさまの十字架のあがないにより、一喜一憂する人生ではなく、御国への希望という喜びに満たされた生き方が与えられましたこと、ありがとうございます。主のみことばが更に蓄えられていきますように。主にある喜びが、あなたを慕う者すべての上に、さらに増し加わりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
Comentários