top of page
  • HCCnichigo

2023年3月21日 ディボーション

エペソ人への手紙4章


「聖霊の認証」


 この頃の携帯電話やパソコンには、顔の認証や指紋の認証で本人確認をする。若い人には当たり前なんでしょうが、先日、イスラエルのお土産の店で、VISAの携帯電話での支払いで初めて使ってみました。携帯電話にVISAカード情報を入れておいて、お店での支払いに顔認証で支払いが簡単に処理された。全く財布を持たずに買い物とは便利な世の中になったものです。

 果たして私達クリスチャンの認証とは何なのだろうか?この章にある聖霊の認証とは、謙遜、柔和、寛容、愛、平和とある。

2〜3節「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」 


 エルサレムの神殿の中では、いくつかの容器、例えば皿、鉢や瓶でこれらは神への礼拝ために使われる、その目的のために聖なる器となる。もちろん器、そのもの自身が聖なる物ではないが、聖なる神のために使われるので、家庭の容器とは異なる存在となる。ですから私たちクリスチャンも、聖なる神のために使われるときに聖となる器になるのだ。クリスチャン一人一人に聖なる認証が押されていて、それは石に書かれていた律法ではなく、心に刻まれている聖霊による認証なのだ。自分自身では欠けていても、主イエスの持っておられる謙遜、柔和、寛容、愛、平和、この御性質が、聖なる神のために使われるように、欠けている私達にも、聖霊を通じて欠け目を塞ぐように分けて下さったものと理解している。

 この認証を頂いているかどうか、実証するのは私達が自分自身の罪を赦され、良心の呵責から解放されただけで無く、傷つけられた他人をも赦す事が出来るならば、聖なる認証を受けていると確信します。そうして皆で主を賛美する時に、心から一致する事が出来るのではないでしょうか?


 東京の中野区に哲学公園があって噴水を囲むように銅像が円状に並ぶ、お釈迦様の隣に、イエス・キリストの像があり、アブラハムが平身低頭している像、古代エジプト王イクナトーンもあって、それぞれが信じる者を大事にする「和」が強調されている公園だ。しかし人と人との表面的な和を強調するあまり、かえって日本の社会の現実は、夫婦の仲が裂かれ、家庭内の断絶、学校でのいじめや会社内での不和に繋がっていて、本当の和の一致を見ることが出来なくなっているのではないだろうか? お互いに干渉し合わない事が、相手を尊重する事にはならない、本物の「和」には繋がらない。


 エペソ教会に対して、主イエスを目指すところの一致を指し示す16節「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」

 今あらゆる教会で、主イエスによってひとつになっているかどうかが問われています。

 我々自身の努力では出来ませんが、主イエスの謙遜、柔和、寛容、愛、平和を目指して歩む時に、聖とされ、異なる賜物の人々が一致できるようになると明記されているのです。


 ナザレ村の聖マリア召命教会を訪ねた時に、大勢のクリスチャン、多国籍、民族も異なる人々がおりました。立ち並んでいる時に、突然我々の後ろに並んでいた20人ほどの若い神父さん達が賛美を始めたのです。十字架の勝利という賛美をスペイン語で歌っているのでしたが、この教会に居た全ての人々は、主にあっての一致、言語ではなく、主を求めて賛美する中にひとつの想いになる事が出来たのです。表面的に人と人の和を大事にすることでは、心の一致を果たす事は出来ません。真理はひとつ、主はひとつ、信仰はひとつなのだと記されています。


祈り

主よ、あなたがおられたエルサレムで賛美による一致を体験できた事に心から感謝致します。どうか神のための器として、我々が清められて使われますように、聖霊による導きを心から願います。アーメン



閲覧数:28回

最新記事

すべて表示

コロサイ人への手紙 4章 「祈り」 4つの獄中書簡(エペソ、ピリピ、コロサイ、ピレモン)の一つのコロサイ人への手紙の最後の章で、パウロは「目を覚まして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい」(2節)と勧めます。 クリスチャンの生活から祈りが失われると、自分の関心と欲望の中に埋没し、ぼんやり惰性で生きていく生活に陥る悪魔の誘惑が訪れてきます。上にあるものを求める歩みは、まさに神の助けにより進むも

コロサイ人への手紙 3章 パウロは、コロサイ書のこの3章で私達のクリスチャン生活の原則を述べている。 特に心に示された聖句をここに述べたいと思います。 「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」 -2節- 私達のいのちは今でもキリストとともにあるゆえに、地上のものを思ってはならないということである。なぜなら、私達はキリストとともに死んでよみがえったからである。 「キリストのこ

コロサイ人への手紙 1章 「本物の信仰」 コロサイ教会、この教会はパウロが作り上げた教会ではなく、パウロがエペソに3年の伝道をしていました時に、コロサイの住人でエパフラスという人がエペソに来て、恐らくそこでパウロから福音を聞いたと思われます。それから彼はコロサイに戻ってホームチャーチを始めたようです。 紀元64年に大きな地震があって町は跡形無く崩れ去ったので今では、それがどこであったのかわかりませ

bottom of page