ガラテヤ人への手紙 3章
「キリストにあってひとつとなる」
ガラテヤ書は奥深い、特に旧約聖書との関係を理解しながらみことばを噛み締めよう。旧約聖書には律法があり、罪の贖いの方法が記されているが、その理由の説明はされていない。罪の内容は明記され、やがて来られる救い主の約束はあるが、どのように救い主が来られ、罪から救われるのかとの説明はない。そういう意味で旧約は未完成な書と言える。そしてこの3章では、旧約聖書の主旨である律法は、主イエスに導くための養育係と説明されています。
24節「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」
一番下の孫娘は一歳半で、この子の養育係としてする事は、まず何が悪いことかを教える事です。出エジプトで律法を授かったイスラエルの民は、エジプトで奴隷として数百年暮らしエジプトの異文化の影響を受けて育っていました。何が神に選ばれた民として、してはならない事、悪い事は何かを律法を持って教えられたので、律法は養育係なのです。それは4歳の孫娘に自転車の乗り方を教える時に、いきなり二輪車ではなくて、後輪に補助車を付けて倒れない様に保護しながら、徐々に運転に慣れさせる。補助車がイスラエル民族に律法として与えられたのと同じではないかと思うのです。
その目的は、自分の力では到達する事はできないが、神の定められた律法の趣旨を理解し、神に頼る信仰によって義とされるためでしたが、補助車は、独り立ちするまで必要でした。
確かに、信仰による義が、このガラテヤ書の本来の主題ですが、少し別の角度で十字架のイエスを見てみましょう。
13節「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」理解に苦しむ文章ですね。
どうして主イエスは十字架にかからなければならなかったのか?神の子として人を救うもっと別の方法があったはずではないかという疑問に答えているのです。創世記にアダムとエバの罪のために、まずはへびが呪われて、地もあなたのために呪われる。とありその後カインも呪われた者となってゆきます。主イエスの救いは、人を罪から霊を救い、やがて死から永遠の身体への救いで終わる事なく、この地も呪いから解放してあげる救いです。そのため、罪なき主は、もっとも呪われた形で、全ての人間の罪をご自分自身に受けられる必要があったのです。旧約聖書で神に呪われる者として、申命記21:23a 「その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。」と明記されているので、その言葉は成就しなければならなかった。祭司長やパリサイ派のリーダー達は、石打ちの刑で主イエスを殺すことも出来たはずですが、神聖なエルサレムの地を汚す事を自分達の手では出来なかった、ローマ兵によって抹殺を達成しようと企んだ訳です。その結果の十字架が信仰による義のシンボルとなって、世界中に広がってゆくとは、神の奥義はなんと深淵なのでしょうか。主イエスは十字架という杯を避けて死に向かう事は出来なかったのです。最後まで天なる父に従順に従う信仰を、どの様な異なる文化の中でも、私たちひとりひとりが理解できる様に、ハッキリと示されて神の義を十字架で示して下さったのです。
祈り
私たちのために、神からのろわれる者として十字架にかかって下さった主イエス。全ての呪いを、御手に握り、釘で刺しとうされて呪いからの解放をされた主イエスに、心から感謝致します。 信仰の義に私も立つことができますように! アーメン
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