ミカ書 6章
ミカ書6章8節の御言葉が心に留まる。
「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」
幾千、幾万の犠牲の動物を捧げても、自分の長子を生贄にしても、そこに正義と愛と謙遜がなければ無意味である(6、7節)。
主は、私たちに何を求めているのだろうか。何が本当に良いことなのだろうか。確かに犠牲の捧げものについては、律法に記されている。それ自体は神の要求することだ。しかし、犠牲を捧げるという儀式を忠実に守りながらも、そこに不正があり、神を裏切り(偶像礼拝)、高慢があるなら、その犠牲の捧げものには何の価値もない。ただの建前の宗教儀式に過ぎない。ましてや、その宗教儀式が不正の温床となり、神への愛など全くなく、むしろ人を高慢にさせるなら、それは害でしかない。
私たちの礼拝、ディボーション、奉仕、交わり、宣教が、それら自体は良いものであっても、そこに愛と正義と謙遜があるだろうか。それらがただの形式だけの宗教儀式に成り下がってはいないだろうか。
私たちの礼拝には、形式がある。しかし、その形の中身にはいのちが溢れているだろうか。ただの形だけの礼拝であるなら、それは悲しいことだ。
幸いに、私は毎週の礼拝に、聖霊の臨在と働きを見る。ただの形式だけの礼拝ではない。主への愛といのちにあふれた真実な礼拝が捧げられている。それは、集っている礼拝者一人一人が、真の礼拝者であるからだ。
私たちの信仰生活にとって、形式化、宗教化の危険性は常にある。だからこそ、本当に主が求めていることは何なのか、何が本当に大事なことなのか、その主の御心をキャッチ出来る者でありたい。物事の本質を見抜く霊的感性を養っていきたい。
そのためには、絶えず、天の父との人格的な交わりの中に身を置いていきたいと思わされる。
天の父なる神さま。あなたが何を求めているのかを悟ることが出来るように、私たちの霊的感性を養ってください。
信仰の形式化、宗教化から私たちを守ってください。いつもいのちに溢れた礼拝を捧げることができますように。建前ではなく、本音であなたを交わることができますように。
そして、正義と愛と謙遜を身に着けて、あなたと共に歩む者でありますように。聖霊が私たちを助け、導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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