ホセア書 6章
「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」
主イエスは伝道される時に度々、預言者ホセアのこの6章6節のことばを引用されて旧約時代と恵みの時の違いを教えておられたようです。(マタイ9:13と12:7) 、宗教は儀式ではありませんが人が重んじてしまうのは今でも儀式なのですが、しかし主の喜びは儀式ではなく、私たちの主への真の愛。イエスは預言者ホセアのみことばを続けます、実にヘブル語でホセアとイエスは同名だそうです。主イエスはこの旧約ホセアのみことばを、旧約の律法の儀式を重要視する祭司や律法学者に投げかけたのですが、同時に現代の我々にも問われているのです。さて、真実の愛であって、いけにえでは無いという事はハッキリとわかります。
しかし、ここで神がホセアに与えた命令、主のことばは厳し過ぎるのでは無いでしょうか? いくら主のことばであっても、愛していない姦淫の女、ゴメルと結婚しなければならないのはホセアにとって真実の愛では無いし、その屈辱と苦難は耐え難い事だったと思えます。この命令は、誰にとってもあんまりではないかと思ってしまいます。しかし、これは神の戒めでした。確かに父なる神にとって妻にあたるのは、イスラエル12部族で、神が選ばれた聖なる民、妻に当たるわけですが、その妻が姦淫の女となっているのだと、その気持ちを預言者であるホセアに自らの体験を持って理解させられるのがホセア書なのです、しかし姦淫とはただ単に夫婦関係に止まらず、広く理解すると、例えば愛を裏切る時、踏みにじる時も姦淫に当たるとのです、友が友の愛を裏切る時、イスカリオーテのユダが恩師イエスを裏切る時も姦淫を働いたのです。不孝、不忠も姦淫で、そう考えると私たちも主イエスに出会う前は、姦淫の娘、息子だったと覚えて下さい。ここでホセアは聖霊によって神の御心を理解して自分の不幸よりも、預言者としてイスラエルの民の不幸を嘆いたのです。果たして神の審判に続くのは神の救いです。裁きの預言に続く6章では救いに導くための第一歩、悔い改めです。
この6章ではホセアがイスラエルの子たちを悔い改めに導こうとしているのです。
1節「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」ここで預言が入ります。2節「主はニ日の後に私たちを生き返らせ三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。」
何という希望でしょう、そして主イエスの初穂としての復活を思い起こしますね。それでも不孝、不忠の罪は続きます。
7節「ところが、彼らはアダムのように契約を破り、そこでわたしを裏切った。」ああ、私達は神が愛である、世の中で最も尊いものが愛だと知る、それなのにその愛を踏みにじる事が最大の罪なのです。いまだにイスラエルの多くの民は主イエスとその愛を知ろうとしておりません、日本の民も同じように主を知ろうとしないのです。救いの手は伸ばされていて、助け主である聖霊も罪の中にいる姦淫の民に送られておられる、主が求めておられるのは、真実の愛で主の愛に応えて御手を掴む事です。
祈り
どうか多くの民が主イエスに立ち返りますように、御手を掴みますように、日本におります私の家族、友人達も真実の愛に目覚めて、この世の富では無く、心に輝く宝石のような聖霊を受け入れて導かれますように! アーメン
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