ホセア書13章
『死から贖う』
この13章でもイスラエルの裁きが続く。この世の創造主である神を拝まずに、自分達で鋳物の像を作り偶像を拝む北王国イスラエルに、自分の神に逆らった裁きを、獅子が獲物を襲う姿や、子どもを奪われた敵をズタズタに引き裂く雌熊の怒りに例えて、恐ろしい裁きの結果を伝えている。
問題は14節の解釈で、聖書によっては、希望の言葉のようにも読めるし、逆に怒りのことばとして記されてもいる。新改訳は希望的だ。14節「わたしはよみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖う。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。よみよ、おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。」
死から贖ってくださろうと読める。しかしながら口語訳やリビングバイブルでは、むしろ反対に怒りのことばとして解釈されている。14節リビングバイブル「わたしは身代金を払って イスラエルを地獄から救い出そうか。 死から買い戻そうか。 死よ、その恐ろしさをイスラエルに存分に味わわせよ。 墓よ、その災いをはっきりと示せ。 わたしはもうあわれまない。」どちらが正しい訳なのか迷う箇所だ。
このような日本語訳がはっきりしない時、自分は英語訳King James Version( KJV)を見るようにしている、ギリシャ語やヘブル語は読めないけれど、最も本文原語 ギリシャ語訳に近い英語に訳しているからKJVを参照するとニュワンスが日本語訳と異なっている。
しかしどちらもハッキリしている事は、神は、よみ、地獄、死の恐怖から救い出す事の出来るお方である事に注目したい。贖い主である主イエスを信じる私達クリスチャンとこの世の者との違いは何か? 御子を信じる者が永遠のいのちを持つためであると聖書にある通り、復活の主を信じる私達は、実は主を信じた時にすでに、死から贖って頂いているのです。もはや肉体の死が終着駅では無いのです。 肉体の死の恐怖に勝つほどのパラダイスへの約束、永遠の身体への希望が死の恐怖に打ち勝っているはずなのです。そのはずのクリスチャン、どれほどのクリスチャンが心からこの救いを信じると言いながらも、目の前の肉体の死を恐れて、この世を愛してしまっているのでしょう。ですから助け主、聖霊の力が必要になります。
15節「彼(北王国イスラエル)は兄弟たちの中で栄えている。だが、東風(アッシリア)が吹いて来て、主の息が荒野から立ち上り、水源は涸れ、泉は干上がる。それはすべての尊い器がある宝物倉を略奪する。」
私達も北王国イスラエル(エフライム)のように、この世を愛し、崇拝し、宝を大事にしてしまうと命の水源が干上がってしまうのです。それでは我々クリスチャンの宝とは何のことでしょうか? それは主イエスを信じて頂いた主の聖霊が私達の本当の宝で、そこから流れ出る聖書のみことばが枯れる事のない水源となり、やがて主の待ち受ける園に導いてくれる道案内となってくださるのです。ヨハネの福音書4:24「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
こんな事を書きながら、ついついサンフランシスコに住む次女に宝くじを買ってもらいました。今回は何と賞金はワンビリオン$だそうです。結果としてメイン州の方1人に当たったそうですが、当たるまでの間、自分は当たったら何に使おうと想像して、この世を愛してしまっている自分を見つけられてしまいました。
祈り
主よ どうかこの弱き者、この世を愛してしまう自分の眼を開き、聖霊の導きに従う砕けた心を与えて下さい。そうして聖霊によって、真理である主イエスによって父なる神を礼拝できるようにして下さい。アーメン
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