『第7のラッパ』
黙示録を解釈するに、自分の立場は、みことばを字句通りにとらえ、理解しようとしています。例えば、四十二ヶ月と言えば、3年半と理解するのですが、それは旧暦では一年が360日だったこともあり、それは同時にこの、3節の千二百六十日に該当します。もし、地上での患難時代が7年続くと考える場合には、これは前半の3年半にあたるわけで、前半(患難時代)と後半を区分けして、後半の3年半を大患難時代と理解する考えですが、この将来起こるべき患難時代を全く異なった解釈もある事も理解しながらヨハネの幻を一緒に学びましょう。
教会でも黙示録から7つの教会が語られています。関先生がおっしゃられるように、ヨハネの伝える幻について色々な考え方があるものの、最終的に行き着く所は、主イエスが信じる者達と一緒に住んでくださる所に向かっている事だけは、間違いないのです。
さて、分かりやすくするために前半を患難時代、後半を大患難時代とすると、前半の3年半の間に、主が遣わされた二人の証人が特別な権威を持って、世を罰しながら預言をするのですが、この世は、主イエスやこれまでの多くの預言者を信じなかったように、ほとんどの者たちは、彼らの奇跡を見ても、この二人の預言者を信じないのです。 恐らくこの時代には、教会や本当のクリスチャンたちは携挙され、天に挙げられしまっており、残された者たちは、自己中心の世、不法の世を止める者(クリスチャンや教会)はいない状態なのではないかと推測するのです。まさに悪に満ちた、そしてサタンに牛耳られている世界になってしまったと思われます。
この二人の証人はサタンが送ってきた獣によって殺され、この世の人々は罪を裁き、苦しめる二人が殺されたことを喜ぶのですが、神が彼らを復活されたので、今度はその驚きが、逆に恐れに襲われるのです。このようにやがてこの世には患難が下されて、神の裁きによって恐怖に包まれます。主の日とは、主の裁きが地上に下る時と同時に、主が信じるもの達に与える恵みの日でもあるのです。
13節「そのとき、大きな地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のために七千人が死んだ。残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した。」
私たち人間は、神のことばに背いたという原罪を持って生まれて来ました、偶像を礼拝することも、実は私たち自身の求める事を叶えてくれる神を作り礼拝する、つまり自分自身を礼拝する事と一緒なのです。 この都(エルサレム)の残った者は恐れを抱き、天の神に栄光をとありますが、まだ主なるイエスを神の子として理解する所までになっていません。彼らが主イエスを求める祈りをする時に主イエスがもう一度、今度は主イエスによる王国(千年王国)をこの世に造られるという事が預言されていますが、まだまだこの世は火による洗礼を受けるのです。
地上での患難に比べて、15節からは天上のこの時の状況を表しています。これまでの間に地上で主イエスのために迫害を受けた者や聖徒たちに報いが与えられる時が来ました。私たちの主なる神は、聖書の初めから終わりまで、人間を救おうと御手を伸ばされておられます。主イエスもこの世を裁くためでなく、救いにきたとおっしゃられました。この再臨の目的も救いが目的なのです。 しかし真理であり、世の光である聖なる主が再度、来られる世には、汚れた者たち、神を第一とせず自分を第一とする者、闇を好む者たちは、一緒に主イエスと暮らすことはできません。 送られて行く先は、世を照らす光もなく、神の愛もなく、隣人愛は途絶え、暗黒の世界に迎えられる事になります。
祈り
我が主イエス、主が王となり、主の王国で私たち、僕が主と共に働く日を待ち望みます。私たちの生きた希望は、主イエスと共にいることです。どうか一人でも多くの者が主イエスを知る事ができますように。 アーメン
文:森 宗孝
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