『開かれた小さな巻物』
七人の御使いに渡された七つのラッパのうちの六つが吹かれ、ダニエル書の預言にある七年の大患難時代の半分が終わりました。終末預言に関しては様々な解釈がありますが、それをどのように解釈するかによって御国への希望に大きな差が出て来ると思います。キリスト再臨に向けての携挙について、多くの福音派の神学者は患難期前携挙説を唱えています。つまり、救われている信者は大患難時代が起きる前に携挙(天に上げられる)されるという解釈に立っています。しかし、患難期後携挙説、または患難期中携挙説もあり、これらの解釈に立つなら救われた信者も患難時代を過ごすことになります。いずれにせよ、大患難時代はラッパと共に始まり、これまで六つのラッパによってその状況が明らかにされました。そして最後の七つ目のラッパが吹かれるとき、神のさばきはますます激しくなり、続いて七つの鉢によるさばきが始まります。大患難時代の後半を告げる第七のラッパを前に、ヨハネはもう一人の強い御使いが持つ開かれた小さな巻物を食べるように言われます。それを食したヨハネは「口には蜜のように甘かったが、それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった」と言いました。御使いが持っていた開かれた小さな巻物とは「Biblion」(ギリシア語)つまり聖書でした。
ヨハネが食した小さな巻物は彼の血となり肉となりました。そうすることで彼は、彼がなすべき仕事のための力を得たと言います(Pulpit Commentary参照)。ここに聖書を学ぶことの大切さを強く感じました。主イエスの使徒となり、その教えを間近に聞き、またその行いを間近に見た者でさえ、キリストの再臨を前に聖書を食べろと言われたのです。そうしなければ、これ以降に起きる主のさばきについての預言書を書き続けることなど出来なかったのです。聖書は聖霊の内住が無い者が読むなら意味不明の書物です。しかし、救われた者は聖霊によってみことばを食べることが出来、その味について知ることになります。ヨハネはそれを「口には蜜のように甘かったが、それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった」と言っています。
ヨハネと同じように巻物を食べた人は旧約聖書にもいました。エレミヤ(15:16‐18)とエゼキエル(2:9‐10,3:1‐4、14)です。特にエゼキエルはヨハネと同じように最初は蜜のように甘かったが、時間が経つと苦みが出て来たという体験をしています。彼らは一様にみことばや巻物を食すことによって将来起きることを知ることになり、それは喜びとなりました。しかし同時に、そのさばきに遭う人たちを思って嘆いてもいます。これが「口には甘いが、腹に入ると苦い」ということだと思います。
聖書を読み、学ぶとき、私たちはまず、神のご計画の甘い味を知ります。しかし、その部分を心に染み込ませるとき、神の計画が実現される方法の苦さも経験することになります。黙示録の預言によって明かされる神の素晴らしい計画を読むとき、救われている人にとっては甘みを経験することになりますが、そうでない人には苦いものとなります。神の民であるイスラエルにとっても預言は、千年王国の平和を甘く予感させますが、彼らが大患難時代にあってどのような苦しみを経験しなければならないかを思うとき、それは苦い味になります。主イエスの到来についても同じことが言えると思います。空中で主にお会いすることを考えるとき、信仰を持つ者にとって甘美な瞬間だと思います。しかし同時にその到来は、主イエスを拒み、拒絶したすべての人々にとって何を意味するのかを考えるとき、それは苦い味となります。なぜならそれは彼らが永遠に失われることを意味するからです。
ヨハネは小さな巻物を食べることによって、主のご用にふさわしい者とされました。つまり、主が求める奉仕をしたいと願うなら、その前にみことばを食べなければならないということです。主はみことばを食した者でなければ主のご用に用いることができません。私はこれまでいろいろな教会の奉仕に携わって来ました。それらは私に「共に働く」という大切なことを教えてくれました。今、聖書を学ぶ奉仕に携わることになり、いつ主のご用に用いていただけるのかと思うと、これからが楽しみです。聖書を学んで、みことばを自分の血となり肉となるほどに食べ、主の日に備えたいと思います。
祈り:愛する天のお父さま。みことばを食べることの大切さを再び学ぶことが出来ました。感謝いたします。みことばは口には甘く、腹には苦い、本当にその通りです。その甘さと苦さについて十分に知ることが出来た時には、どうか主が求められる奉仕に用いていただけますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:アイゾン直子
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