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2023年12月18日 申命記2章

『カデシュからヘシュボンへ』 


 前章に引き続きモーセは、イスラエルの民がセイル山をどのように巡ったかについて語っています。カデシュ・バルネアでの不信仰が原因で彼らは前進も後進もすることなく、ただセイル山の周りを38年間移動しました。モーセはこの事について何一つ記録していませんが、神はその間も民を見守り、祝福してくださったと書いています(7)。


 主が言われたように北へと向きを変えた彼らの前には、エドム人やモアブ人、またアンモン人が住む領土がありました。しかし主は、そこを通過するにあたり、それらの民族に戦いを仕掛けてはならないと命じました。なぜなら彼らもまたアブラハムの家系に連なる民族であり、彼らの土地は主が彼らに与えたものだったからです。エドム人もモアブ人もアンモン人も決してイスラエルに対して友好的に対応してくれたわけではありませんが、主の導きによってイスラエルは無事にそれらの土地を通過して行きました。


 しかし主は、次の通過点となるヘシュボンの王アモリ人シホンが所有していた土地に関しては戦って占領せよと命じました。彼らはアブラハムとは無縁の異邦人たちでした。主は武力行使を命じましたが、モーセは平和的な解決を試みました。しかしヘシュボンの王シホンの心は頑なで、モーセの申し出を受ける余地など持っていませんでした。その結果、ヘシュボンに住んでいたすべてのアモリ人たちは打たれることになりました。


 この時のイスラエルは、長年にわたる荒野での旅を通して軍事力にも長けるようになっていたと思われます。武力を行使すれば、いくらでも欲しい土地を手に入れることが出来たのだと思います。しかし主はここで、イスラエルに与えたものと与えていないものへの対応を明確にしておられます。それはまるで神が与えたもの以外を手にしようとする試みは罪、たとえ手に入れることが出来たとしても、必ず取り去られることになるという意味を含んでいるかのようです。人の賜物や祝福を羨むとき、隠れていた罪の性質を聖霊が露わにしてくださったと感謝して、素直に悔い改めの祈りをする者でありたいと思います。


 それにしても、愛の神が聖絶を命じる場面は読むとき、そのことについてどのように受け取ればよいのか悩みます。子どもや赤ん坊まで殺す必要があるのかと思うからです。しかし大人であれ子どもであれ、人はみな環境に合わせて暮らしています。たとえその環境を作り出したすべての大人を排除したとしても、残された子供たちは大人たちを排除した相手を憎み、自分たちが教わったことを受け継いで行くだけだと言います。その悪の連鎖を止めるには、やはりみわざによる聖絶しかなかったということなのだと思います。ただし聖書には、子どもが永遠のさばきに遭うという記述はないそうです。責任能力のない年齢で死んだ子供たちは、さばかれない可能性が高いといえます。


 モーセは、荒野での旅の多くのことについて沈黙していますが、その目はいつもイスラエルの民に注がれた神のいつくしみに向けられていました。状況は決して好ましくないのですが、そういう中にあっても主への信頼が薄れないところにモーセの信仰のすごさがあるように思いました。


 カナンへの入国が遅れた原因は、イスラエルの不信仰にありましたが、神は悪から善を、闇から光を導き出されました。荒野で彼らは国家として組織され、律法を受け、従順を学びました。そのように私たちも罪によって、神が定められた道から遠ざかり、主のみわざを妨害してしまうことがありますが、しかしそこで経験する種々の苦難さえも主は益としてくださることを、イスラエルの荒野での旅を通して学ぶことができました。



祈り:愛する天のお父さま。主が示される道を歩むことが正しいと分かっていても、時に横道に逸れたり、来た道を戻ろうとしてしまう者です。しかし、どのような道を歩んでいたとしても、主はいつも私と共にいてくださり、私が主の道に戻るよう祈ってくださっていることを感謝いたします。私の信仰生活も40年の荒野の旅の末に導かれました。神さまのなさることは本当に時にかなって美しい。あなたの愛に心から感謝いたします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


文:アイゾン直子



参照:e-Swordアプリ、ハーベストタイム「申命記」


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