『サルディス教会、フィラデルフィア教会、ラオディキア教会』
キリストによる5つ目の手紙はサルディス教会です。サルディスはティアティラから南東に位置する小アジア(現在のトルコ)の町です。東西を走る交易路の中心であったため非常に栄え、アルテミス神殿がありました。
この教会に宛てられた手紙は、これまでの手紙とは異なり、厳しい叱責から始まっています。神の七つの霊と七つの星を持つキリストは彼らについて 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」と、サルディス教会の生気のない状態をはっきり非難されました。教会の評判は良かったかもしれませんが、霊的には生気がなく、その状態は霊的に死んでいました。彼らの信仰は形式的には完璧でしたが、いのちの交流がなかったようです。そこでイエスは彼らに 目を覚ましなさいと忠告しています。
サルディス教会は16世紀から17世紀の教会の型だと言われています。神はルターやカルヴァンを用いて当時のローマ・カトリックの誤りを正そうとしましたが、彼らが抵抗したことを発端にキリスト教界は二部され、その新旧両派による激しい宗教戦争へと発展していきました。みこころによって始まった改革はいつしかカトリック派、プロテスタント派という宗教になってしまった、とオランダの神学者G・de Koningは言います。彼は、今日キリストを告白する者は大勢いるが、キリストとともに生きる者は相対的に少数だと語ります。信仰告白や洗礼、また礼拝、奉仕といった形式的な行いだけでは生きている教会だとは言えないと糾弾しています。
そのような教会に対して主は「だから、どのように受け、聞いたのかを思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない」(3)と各自の信仰とその救いについて再確認するよう忠告しておられます。神は愛であり、一度救われた人がその救いを失うことは決してありません。しかし、救いの確信がどこにあるのかを知らないまま、教会員になっている人がいるかもしれません。「キリスト・イエスが私たちの罪のために十字架に架かれたこと、葬られたこと、三日目によみがえられたこと」を本当に信じているのかどうか、聖書を読むたびに問われているのではと思いました。
さて、キリストによる6つ目の手紙はフィラデルフィア教会です。フィラデルフィアもまたサルディスの南東に位置する小アジアの町です。農業生産が盛んで特にワインで有名だそうです。しかしこの町にも酒の神ディオニソス(バッカス)という神が祀られていました。
フィラデルフィア教会への手紙は、サルディス教会への手紙とは異なり、賞賛から始まっています。聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っておられるキリストは彼らに「わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった」と言われました。主は彼らの信仰を喜ばれたのです。
フィラデルフィアという言葉の意味(兄弟愛)通り、この教会は互いに愛し合っていました。その愛はそのまま主への愛と、みことばへの愛の表現となりました。主にとって生きた教会とは、霊的にキリストの似姿を表している教会のことではないかと思いました。そしてそれは、互いに少しばかりの力しかないことを認め合うことによって、そのように変えられていくのかもしれません。もし自分の信仰がサルディス教会のような形式的なものになっていたとするなら、主に委ね、主の力を求めたいと思います。主は求める者には必ず、ダビデの鍵を用いて主に通ずる扉を開けてくださるからです。
キリストが送られた最後の手紙、7つ目の手紙はラオディキア教会です。ラオディキアの町はフィラデルフィアの南東に位置する裕福な町でした。使徒パウロは、この町に福音を伝えることに大いに貢献したようで、コロサイ人への手紙はこの町から書き送っています。ただ彼自身がこの町を訪れることはなかったようです。
サルディス教会への手紙と同じく、ラオディキヤ教会への手紙にも賞賛のことばはありません。アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源であるキリストは彼らに「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」と言われました。つまり彼らは、サルディス教会のように冷たくもなければ、フィラデルフィア教会のように熱くもなかったのです。
主は彼らの信仰を生ぬるいと言われました。彼らはキリストに満たされず、自分自身に満たされ、彼らの証しはもはやキリストではなく、自分自身でした。自己満足による信仰を見て主は嘆いています。彼らには自分の姿が見えていないからです。彼らはキリストを追い出したことに気づいていません。そのような信仰にあっても、キリストは戸を叩き続けると言われます。そしてその戸を開けるなら、ともに食事(和解)をしてくださると言われます。ここに測り知れない主の愛を感じます。私たちの信仰は揺れ動きますが、主の愛は決して変わらないのです。どのような仕打ちに合っても、赦すことをやめないのです。
サルディス教会、フィラデルフィア教会、ラオディキア教会を通して自分自身の信仰、またそこに注がれている神の愛について深く学ぶことができました。礼拝に集うことも、奉仕をすることも、聖書を読むことも習慣にすることが大切だと言いますが、そこに愛が伴っていないなら、それは神にとってはまさしく「騒がしいどら、うるさいシンバル」なのかもしれません。教会における働きにおいて形式的になっていないか、自分の信仰に満足してうぬぼれてはいないかなど、聖書のみことばに照らし合わせながら、みこころにかなう信仰を目指したいと思いました。
祈り:愛する天のお父さま。諸教会に宛てられた手紙を感謝いたします。各教会の姿を見ながら、自分の信仰を振り返る学びとなりました。感謝いたします。主の愛に満たされた信仰を目指したいと願います。どうか、聖書を通して語られるみことばを正しく理解できますよう、守り、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:アイゾン直子
Comments