『ルベン族とガド族』
約束の地を前に、ルベン族とガド族は共同して、イスラエルがすでに滅ぼしたヤゼルとギルアデの地を所有したいとモーセに申し出ます。彼らはヨルダン川を渡って約束の地に入植するより、すでに安住となったモアブの平原に留まることを望んだのです。彼らの願いを聞いたモーセは40年前のカデシュ・バルネアでの出来事を思い出します(民13:27‐14:4)。
モーセは彼らの自分勝手な考えに怒りを覚えると同時に、約束の地に入ることが出来るのにそれを拒む彼らに対して悲しみも覚えていたのではと思います。モーセ含め、多くの出エジプトを経験した同胞たちは約束に地に入ることが出来なかったのです。モーセは彼らに、共にヨルダン川を渡らないなら、主は再びこの民をこの荒野に見捨てられ、滅びをもたらすことになると訴えます。そこでルベン族とガド族は、モアブの草原に家族や家畜を置いては行くが,自分たちはイスラエルの民を約束の地に導き入れるまでは、先頭に立って戦うことを約束します。モーセは彼らが必ず約束を守ることを確認すると、カナンの地を征服した後、モアブの草原一体の土地を彼らに与えると約束します。
ルベン族とガド族の行動は、果たしてこれでよかったのでしょうか。彼らは、主が用意された土地には住まず、自分たちで選んだ土地での生活を望みました。彼らは、自分たちで選んだ土地で自分たちの町を作り、自分たちの手で快適な暮らしを目指すわけです。つまり彼らは、天上の祝福ではなく、地上の祝福を選んだのです。そしてこのことのゆえに、後に彼らはアッシリア捕囚によって離散の民となります(1歴5:25‐26)。主の道から逸れた者と従った者との行く末の違いについて聖書は常に明白です。
ルベン族とガド族の姿から、主の思いよりも自分の思いを優先させるなら、せっかくの恵みを自らの意思で拒否することになることが分かります。主が祝福された地に入るためには、ヨルダン川を渡らなければいけないのです。それは十字架による祝福と地上の祝福との間に流れている川です。健康や衣服、住まい、仕事、家族といった地上の祝福だけで十分だと思うなら、ヨルダン川を渡る必要はないのです。地上の祝福はノンクリスチャンでさえ享受することができます。しかし、永遠のいのちという祝福を望むなら、ヨルダン川を渡らなければいけないのです。
ルベン族とガド族は信仰者でした。モーセにとって彼らの行動は反抗者のように映りましたが、共に御前で戦うことを約束した彼らは信仰者でした。しかし主が導かれる土地ではなく、自分たちで選んだ土地に住みたいと申し出た彼らに主への信仰はあったのかとの疑問に、自らの信仰を吟味するよう導かれました。彼らを責めることはできません。なぜなら自分の信仰もまた、彼らのように中途半端なものになっていたからです。ある部分は非常に信仰的なのに、ある部分はそうではないのです。主を信頼していると自負しながら、ヨルダン川の手前で留まっている自分、ヨルダン川を渡らないで何とかしようとしている自分に気づかされました。聖霊による霊的成長を求め、真摯に聖書に向き合うことの大切さを学びました。
祈り:愛する天のお父さま。私の思いや考えではなく、主のみこころを優先する者へと変えてください。聖書のみことばがさらにさらに、私の心に蓄えられていきますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:アイゾン直子
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