top of page
  • HCCnichigo

2023年11月18日 民数記第30章

『誓願と物絶ち』


 30章は誓願と物絶ちに関しての神様からの命令について書かれている。読んで第一に感じたことは、誓願や物絶ちを気安くすると言ってはいけないということだ。 ここを読んで、今までよく考えもせずに誓願などしていないといいがとちょっと不安になった。


 この時代、飢餓や戦争のため、誓願や物絶ちをもって祈ることが多かったのだろう。男が誓願や物絶ちをするときには、そのことばの責任はその人自身にかかってくる。すべて自分のことば通りに実行しなければならなかった。一方女は、嫁入り前はその父が、嫁入り後は夫がその誓願、または物絶ちについての最終判断を下す。なんだか男女不平等な気がするが、約束の地を征服するために戦いに出ていく男たちを、神様は家族のリーダーとして育てるという目的も持っておられたのかなと思った。女が若い時には父が判断する一方、男が若い時の記述は特になく、男はその責任を自分で負うことだけが書かれているからだ。それは、男を高く評価し、女を見下しているということではなく、この戦いの時代に神様が与えられた男の役割のためではないのかと思った。


 でも、だからと言っていつも男すべてが家族や自分の部族のことを冷静に考え、行動できていたとはいえない。サウル王は戦いに勝つまで誰も食べ物を食べてはいけないと戦士たちに誓わせて、戦いを苦しいものにさせたし(1サムエル14:24-31)、エフタは戦いに勝たせて下さったら、最初に出迎えに出て来たものを神様にささげるなどと言って、自分の一人娘を全焼のささげものにしなくてはいけなくなった(士師記11)。そのときの勢いや思い付きで誓願や物絶ちをして後悔しても、後の祭りである。それに巻き込まれる周りの人は迷惑どころの話ではない。


 イエス様は「昔の人々に対して『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』といわれていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。」(マタイ5:33-34)また、ヤコブは「私の兄弟たち。とりわけ誓うことをやめなさい。天にかけても地にかけても、ほかの何にかけても誓ってはいけません。あなたがたの「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」でありなさい。そうすれば、さばきにあうことがありません」(ヤコブ5:12)と述べている。


 私たちが軽々しく誓うことで、さばきにあうことがないようにと警告してくれている。誓願や物絶ちをするほどまでに神様を求めるとき、その心を神様はきっと喜んで下さると思う。でも、これらのみことばから誓わなくても、ただ願いを神様に聞いていただきなさい、神様が取り扱って下さるのだからとおっしゃっておられるように感じる。交換条件のように何かを差し出さなくても、無償でいのちを与えて下さった神様である、祈り求めるとき、親身になってその祈りを聞き、御心のままに応えて下さると思う。自分の人生を振り返ってみても、神様は祈りに応えて下さってる。その応えは私の求めるもの以上だったり、いまだ応えてもらえてないものもある。でも、それが現在の私に神様が与えて下さる最善、神様の御心なんだと思う。


 天のお父様、自分の発することばの重みと大切さを考えさせられました。よく考えてから口にするようにとリマインドして下さり、ありがとうございます。私が祈り求めるとき、何かを差し出さなくても、あなたは応えて下さる方です。それはイエス様の血潮により私があなたの大切な子とされているからです。無償の愛に感謝します。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン   


閲覧数:36回

最新記事

すべて表示

5章から7つの封印の話しが始まる。6章からは、その封印が解かれていく。5章には、屠られた子羊 イエス・キリストへの賛美が捧げられている。 「彼らは大声で言った。『屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。』」(12) この「彼ら」とは、万の数万倍、千の数千倍の御使いのことである(11)。天には、これだけの数の御使いたちがいて、常に神を賛美しているのだ。その賛美

『天の御座』 使徒ヨハネは主イエスが十字架に架けられ、そして槍で刺され、十字架から引き下ろされた時に、そのカルバリの丘に居た唯一の弟子です。そこでは母マリアも、主を愛した女性たちも一緒にいたと聖書は語ります。おそらく、十字架から下ろされた息子、主イエスに母マリアもヨハネもしがみついて泣いたのではないかと思うのです。その時にヨハネの手には主イエスの血が付いたのではないでしょうか。主に愛された弟子で最

bottom of page