この27章では、モーセの後継者としてヨシュアが任命されたことが記されている。
「主は、モーセに言われた。『あなたは、神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを連れて来て、あなたの手を彼の上に置け。ーーーあなたは、自分の権威を彼に分け与えよ。」(18ー20)
「権威を分け与える」この言葉が心に止まった。モーセは、この時主から自らの務めの終わりを告げられる。務めが終わることは、人生が終わる時でもある。
それにしても、モーセの去り際は見事であった。主に自分の命を献げ切っている。自分の務めは終わり、ヨシュアに権威を分け与えていく。そこに院政を引いたり、自分の影響力を残そうとか、記念に銅像を建てようとか、そのような未練は一切ない。
「やるべきことはやった」というすがすがしい満足感を感じる。
牧師の代替わりは、教会にとって大きな試練の時となることが多い。牧師の最後の仕事は、次の牧師に良い形でバトンを渡すことだ。願わくば、モーセのように自分を主に献げ切って後継者を迎えたい。そして自分の権威を喜んで分け与えていきたい。ゆめゆめ、自分の権威を保とうなどと微塵も思ってはならない。
良い引継ぎをするためには、普段から”権威の分与”が行われている必要がある。どうしても、特に日本人教会は、牧師に権威が集中しやすい。だから、牧師自身がその権威を意識して分与していくことが大切だ。
権威が分与されることで、真の権威者は、頭であるキリストであることが分かってくる。
私も常日頃、権威の分与ということを意識している。それだけ主体的に主に仕え、賜物を活かして主の働きに参与する方がいてくださるということだ。その人たちは教会の宝である。牧師に権威を集中させない、権威を分与していく、それが教会が健全に成長するために不可欠な要素なのだ。
天の父なる神さま
モーセがじつに潔く、権威をヨシュアに分け与え、自らは去り、ヨシュアに任せていきます。この姿を通して、リーダーの何たるかを学べることを感謝します。願わくば、教会の健全な成長のために、権威が分与され、一人ひとりが主体的に、主に仕えていくことができますように。どうか聖霊が一人ひとりを励ましてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:関真士
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