22章から24章には、バラムのことが記されている。彼は、モアブの王に招かれてイスラエルを呪うように求められるが、主の御声に聞き従って、逆にイスラエルを3回祝福したことが記されている。
22章では、一つ不可解なことがある。モアブの王に招かれたとき、主はバラムに「立って彼らと一緒に行け」(20)と言われた。その通りにバラムはロバに乗ってモアブの王の所に向かうのだが、その途中で主の怒りが燃え上がり、主の使いが道に立ちはだかったのだ。その時、ロバが口をきくという面白い描写があるのだが、不可解なことは、主が「行け」と言われて、その御声に聞き従ったのに、なぜ主の怒りが燃え上がるのか? ということだ。
ここで聖書解釈の大原則である「聖書は聖書で解釈する」ということで、この不可解な出来事を理解することが出来る。
Ⅱペテロ2章15節「彼らは、正しい道を捨てて、さまよっています。ベオルの子バラムの道に従ったのです。バラムは不義の報酬を愛しましたが、自分の不法の行いをとがめられました。口のきけないロバが人間の声で話して、この預言者の正気を失ったふるまいをやめさせたのです。」
つまり、民数記には記されていないが、バラムは、モアブの王からの報酬を目当てに出かけたということだ。モアブの王はイスラエルを呪うように求めているのだから、その王からの報酬を目当てにするということが“不義”とされるのは当然だ。
主は、私たちの動機を問われる。主の導きに従っていたとしても、その心の動機は、どうなのか? 主に従っているのに道が塞がれ、なぜ? と思うとき、一度心静めて、自らの心の動機を探ってみることも必要だろう。
もしかすると、主の使いが道を塞いでいるのかもしれない。その心のままでは先に進んではならないと、そこで気づきと悔い改めのチャンスをくださるのだ。
私自身も何度か経験がある。悔い改めることで、先の道が開かれたということが。もし、あの時、自らを振り返ることをしないで、そのまま強行突破していたら、その後どうなっていたかと想像すると怖ろしい。しかし、悔い改めることで進んだ道には、大きな祝福が待っていた。
天の父なる神さま
あなたは、私たちの心の動機を探られます。もし、動機に”不義”がある時には、それを示し、道をストップしてくださることを感謝します。そして悔い改めの機会を与え、義の道へと導いてくださることを感謝します。
すべてがあなたの恵みです。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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