相変わらず民の不平不満は続きます。11章の肉が食べたいという食欲、12章のなぜモーセだけが神と語るのだという妬み、そして13章の不信仰です。
モーセは12人を選んで、カナンの地に偵察隊を送りました。その土地は確かに「乳と蜜の流れる地」でした。二人で担がなければならないほどの大きなブドウが成る、とても肥沃な土地でした。
しかし、カレブとヨシュア以外の10人は、「あの民のところには攻め上れない、あの民は私たちより強い。」(31)と言って、エジプトに帰ろうと民を扇動したのです。
もしここで、信仰に立ってカナンの地に進んでいたら、荒野の旅をここで終わっていたのです。この不信仰のゆえに、イスラエルの民は、これから40年間荒野を放浪することになるのです。
「このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。」(へブル3:19)
私が、もし、そこにいた群衆の一人だったら、どっちについていただろうか。目に見える現状を分析し常識的な答えを出している10人の方と、ただ主の約束を信じる2人の方と、どっちについていただろうか。
カナンの地にいる者たちは自分たちよりも強い、というのは確かです。しかし、もっと確かなのは主の約束です。私は果たして「必ず勝つこと出来る」(30)というカレブの方に従っただろうか。
神は、この民数記を通して、人生の荒野を歩む私たちに、信仰によって歩むことの大切を教えています。しかし、それは逆説的な意味があり、真の信仰を得るには、自分の不信仰を知ることだということです。
「あなたは荒野であなたの神、主をどれほど怒らせたかを忘れずに覚えていなさい。エジプトの地を出た日からこの場所に来るまで、あなたは主に逆らい続けてきた。」(申命記9:7)と記されている通りです。
さらに申命記8章には、40年間の荒野生活の意味が記されています。その意味は「あなたの心を知るため。主のことばに生きることを知るため。」とあります。
何かあると直ぐに「エジプトに帰ろう」という発想に陥る民は、私たちの姿です。しかし、その民をも見捨てないで、主は「この40年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。」(申命記8:4)と、守り導いてくださったのです。
私たちは、自分の不信仰を知るとき、自分の力、知識、経験に頼る「私の信仰」から、主のことばを信じて拠り頼む「神に与えられる信仰」へと導かれるのです。
信仰もまた恵みなのです。
天の父なる神さま
この民数記を通して、私たちの心がいかに頑なであるかを教えてくださり感謝をいたします。その私たちに対して、それでも40年間、あなたの臨在は去ることなく、共にい続けてくださったことを、驚きと感動をもって感謝いたします。
どうか、あなたのことばを信じて歩む者として、聖霊が私たちを励まし導いてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
Comments