神は、モーセを会見の天幕に呼び寄せて一方的に語っておられ、この章では捧げものに関して記録されています。
主はイスラエルの民が聖くあることを求められています。
祭司は民たちが神に奉献した聖なる捧げ物を聖別しなければならない立場にあって、民たちが捧げた聖なるものを、祭司自身が汚れたままで扱うなら、それは聖なるものを汚すことになるので、祭司たちに対して、もろもろの汚れから自身を聖く保つように注意を与えられています。(1節から6節)。
ただし、汚れた者については、一般市民同様に、夕方までは汚れるが、「しかし、日が沈めば彼はきよくなり、その後で、聖なるものを食べることが許される。それは彼の食物だからである。」(7節)とあります。
続いて、食べる資格のある者について、それぞれの状況に応じて、考えられるケースを列挙して、食べることが出来る場合と食べることが出来ない場合について具体的に示されています(10節~16節)。
もし食べる資格のない者が、あやまって聖なるものを食べた場合は、食べたものに5分の1を足して、その聖なるものを祭司に渡すようにも命じておられます(14節)。
後半の17節~33節では、いけにえに関する規定が記されています。主が受け入れられるいけにえは、傷のないもの、身体に欠陥のないもので、傷のあるものや身体に欠陥のあるものは受け入れられませんでした。
なぜなら、これらのいけにえは、キリストの贖いの完全性を示すため、欠陥があってはならなかったということです。
人の罪の身代わりに、罪を負うのがいけにえの動物です。祭司は、捧げる人を調べるのではなく、捧げられる動物を詳しく調べました。そして、傷がなく、欠陥がないことを確かめました。つまり、大事なのは、その人に代わって贖いをする動物が、完全無欠である事です。
いけにえの動物が完全無欠であるなら、その人の罪の身代わりとして受け入れられた訳です。
これらのいけにえは、神の御子キリストをあらわすもので、私たち人間は堕落して、傷だらけ、欠陥だらけのものですが、神の御子は、聖なるお方で完全無欠です。 だからこそ、全人類の罪を贖われました。
そのことを、旧約時代のいけにえが表現し、欠陥がない、傷のない動物だけが、身代わりのいけにえとして受け入れられたのです。
最後に、「わたしの聖なる名を汚してはならない。イスラエルの子らの間で、わたしは聖であることが示されなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した。わたしは主である。」と繰り返されています(32、33節)。
主の祈り:何一つ欠点も欠陥もない、完全無欠の聖なる神の御子キリストが、私たちの身代わりとなられたことを覚えます。それ故に、私たちが救われたことを、主に感謝します。アーメン
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