レビ人についてはすでに3章、4章で、その人数と職務について明確に語られていました。
そしてこの8章では、いよいよ彼らがその役割につくための儀式、任職式が現実行われたことが記録されています。
本来ならば、イスラエル人のすべての初子即ち長男や家畜の初子が、主のものとして捧げられなければなりませんでした。しかしイスラエル人の初子たちの代わりに、レビ人が聖別され捧げられたのです。
即ち、レビ人は他のイスラエル人から区別され、主がモーセを通してアロンに告げられたように、彼らは聖別され清められました。
「あなたはレビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉献物として主に献げる。」(8:13)
そして彼らは神に捧げられ、神のものとなったのです。そしてレビ人はアロンとその子らに正式にあてがわれ、会見の天幕でイスラエル人の代わりに奉仕をし、贖いをするようになったのです。(8:19)
私たちクリスチャンも神に招いていただき、信仰を告白することによって、神への奉献物として自分自身をささげ、聖別され、神のものになりました。私たちもレビ人のように、献身の思いを持って神に仕えています。「万人祭司」ということを聞いたことがありますが、私たちも祭司として神に仕える者です。ペテロも言っているように、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(第一ペテロ 2:9)
この章には、レビ人が神への聖なる任職を務めるためには、それにふさわしく、まずきよめられることの重要性を示しています。彼らは次のようにして聖別されきよめられるよう、神はモーセに教えました。
「罪のきよめの水を彼らにかける。彼らは全身にかみそりを当て、その衣服を洗い、身をきよめる。」(8:7)
自分たちの中にある罪や汚れを洗い去ってもらうことです。
しかし自分たちの中に罪や汚れがあることを自分たちが認めるために、主がまずそれを示して下さるのです。それがこの章の初めに、主がモーセを通してアロンに語られた言葉です。
「あなたがともしび皿を載せるとき、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい。」(8:2)
七つのともしびの7は完全数で、神を象徴するものです。そしてそれら七つのともしび皿は、燭台の前を照らすようにせよとあります。その理由は、燭台の前にはイスラエルの12部族を照らす12個のパンが積み重ねられている机があるので、それを照らすようにと言っているのです。
この七つのともしびの目的は、レビ人たちが、水で自分の罪や汚れをきよめられる前に、まず神の光がレビ人たちの心を照らし、自分たちの中にある罪や汚れを自覚させ、認めさせるためだったそうです。
これはまさに私たちクリスチャンが、主に自分たちがいかに罪深い汚れた者であるかを示され、その上で主を受け入れること、そして更に洗礼を受けると決心することにも共通することを思い起こさせてくれます。
「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」(ヨハネ15:16)という聖句を思わされます。
愛する天の父なる神様、私たちクリスチャンも、イスラエル人から選ばれたレビ人のように、世の人々の中から選ばれ、世の人々の代わりに教会という幕屋で主のための働きをさせていただいているこの特権を感謝します。「わたしは世の光です。」と言われたイエス様によって私たちが汚れた罪人であるかを照らし示して下さり、自らきよめられたいと願う心を与えて下さったことを感謝します。私たちもレビ人のように世の祭司として主のために働けるようどうぞ励ましお導き下さい。アーメン
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