「汚れからのきよめ」
民数記の本来の題名、ヘブル語では”べミドバル(荒野にて)” という表題で、エジプトから救われたイスラエルの民が40年間荒野で試練を受け、神から教育を受ける姿が描かれている。私達も必ず、人生の中の荒野を通るわけですが、心が砕かれて主に従う人もいれば、逆に心が閉ざされて、主から離れて別の物を求める道を歩む人もいるのも事実です。民数記では、エジプトの奴隷から救われた古い世代に語られる1~14章から始まり、やがて荒野で育った次世代のイスラエルの民に向けて語られるようになってゆきます。古い世代のモーセもアロンも、ほぼ全てのユダヤ民の出エジプトを経験した世代は、約束のカナンの地の手前までは行くものの、モーセも含めて荒野で果ててしまうのです。
主に選ばれた民として聖なることは、純潔であること、真実であること、正直であることを荒野の中で徹底的に教えられるのですが、この5章では特に純潔である事が中心となっています。
最初の人口調査での成人男子の総数が60万3千人強となるので、家族を含めた全体数は2百万人以上いた訳ですが、彼らが40年間の間、荒野でテント生活する中で数々の問題が発生して、モーセも始めの頃は直接、自分で対処していましたが、やがて長老たちを選んで、小さな問題は、選べれた者たちがまず解決するようになって行きました。
荒野のテント生活の中で、様々な問題が発生します、5章では特に姦淫の罪と祭司のもとで裁かれる方法が示されています。21節には、姦淫の疑いがある女にのろいの誓いを立てさせて苦味の水を飲ませる方法が示されている。
28節「しかし、もし女が身を汚しておらず、きよければ、罰を免れて、子を宿すようになる。」
もし、罪を犯していた場合には、腹が膨れ、桃を痩せ衰え、民の間で、のろいの的となる。とも記されている。神はユダヤの民を妻のように愛し、主イエスは教会を花嫁として愛してくれています、それゆえ姦淫の罪、自分達を救ってくれた神以外のものを拝むことは、一番嫌われる罪となります。
このような律法によって罰せられる罪に対して、主イエスによる救いの関係をパウロはローマ書7章2~6節が見事に説明しております。ローマ書3節「したがって、夫が生きている間に他の男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男のものとなっても姦淫の女とはなりません。」 律法という夫は死んだのです、そうして私達は主イエスを通じて、古い文字(律法)にはよらず、新しい夫、主イエスに仕えている者となった。と結論づけています。
私達は、心に刻まれた御霊の導きに従う者となって、律法の罰によってではなく、御霊によって純潔になる道を教えられるものとなったのです。ヨハネ8章に姦淫の罪に問われた女の話があります。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と言われて年長者から徐々に去ってゆく、残されたのは女とイエスだけだった。彼女はイエスに、はい主よ。誰もいませんと答えて、イエスを主と呼びかけた後に主のことばがあります。
ヨハネ8章12節 イエスは再び人々に語られた『わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩む事がなく、いのちの光をもちます。』
祈り
今の世にはあまりにもたくさんの対立があります、領土問題からの戦争、政治的対立からの分裂、私の見方が正しいと主張し、他の人を裁いてしまう世の中で、主に従う者はいのちの光を持つと約束してくださった、主イエスに心から感謝致します。 アーメン
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