「それでも御手を伸ばされる主」
旧約聖書の学びの時に、十戒の説明で”こうこうしてはならない”という強い表現がされているが、むしろ主なる神からのモーセへの語りかけは、わたしがあなた方をエジプトの奴隷から救い出した唯一の主である、だからあなた方は、わたし以外の神を拝むことはしないでしょうね。というニュアンスではなかったかという解釈をされ、なるほどと思った事を思い出しました。
この26章の初めは、主なる神に従う時の祝福から始まります。あなた方を救った主なる神に従えば、収穫は満ち、周りの敵を蹴散らして、多くの子に恵まれ、主が共に住むと祝福されますよ。しかし主に聞き従わずに、主の掟を拒んだ場合には、まずは懲らしめを受けます。さらに主に逆らって歩む道を選ぶなら、もっと激しくあなた方を打つと、徐々に厳しくなる懲らしめが続きます。
イスラエルの歴史を旧約聖書に見る時に、まさに彼らは、主なる神に逆らって懲らしめられた、わざわいの歴史を繰り返し読み取る事ができます。実に主イエスも律法主義に走ってしまった律法学者、パリサイ人に対して、七つのわざわいを言い渡しています。山上の垂訓では幸なるかな、で始まり主に従う者が御国では報いを受ける教えを語られるのと対照的にマタイ23章13節、15節、16節、23節、25節、27節、29節の7箇所での冒頭は「わざわいだ」という言葉で始まっています。本当に主なる神の道を理解して実行していない者には、わざわいが下されるのです、それは律法学者、パリサイ人に限らず、私達にも語られておられるみことばとなっています。
逆らう者には試練を与え、懲らしめる主なる神ですが、同時にそれでも御手を伸ばされて救われようとされる神でもあります。聖書は確かに主がいかにして人を救おうとされているかという歴史の書でもあります。この26章40節からいかに主が私達を愛して下さっているか明記されています。いくつか、みことばを選びました、40節「逆らって歩んだことを告白する」41節「へりくだるなら」42節「契約を思い起こす」43節「咎の償いをする」44節「わたしの契約を破ることはない」このように私達も、告白し、へりくだり、聖書の約束を思い起こし、咎を償へば、もう一度主の伸ばされている御手を握ることができるのです。
45節にレビ記の主旨が記されています。「わたしは彼らのために、彼らの父祖たちと結んだ契約を思い起こす。わたしは彼らを国々の目の前で、彼らの神となるためにエジプトの地から導き出したのだ。わたしは主である。」
祈り
私達も、罪の奴隷から解放されて、主イエスによって聖なる民、イスラエルに接木された神の子として、恵みの中に導き出された事に感謝致します。主イエスが私たちの咎の償いをしてくださいましたので、父なる神の御手にすがることができるようになった事に感謝致します。
アーメン
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