コリント人への手紙 第二 12章
『高慢と身体のトゲ』
福音は=Good news ですから、神のみことばを伝える事は良いニュースであり、希望を与える伝道です。みことばは真理であり、素晴らしい宝石です、宝石をあげると言われて断る人はいるでしょうか?
しかしながら、現実に日本での伝道は、無視という形で迫害を受けます。
例えば、うちの姉達はクリスチャンを嫌っています。一人は幼い頃にクリスチャンだった叔母に意地悪されたようで、クリスチャンは偽善者だとレッテルを貼っていますし、もう一人の姉はクリスチャンは自分達だけが正しい道を歩いていると見下すから嫌だと言うのです。この様に理由を言ってくれる者はむしろありがたいのですが、心のうちを話してくれる方々は稀で、沢山の方々は心を閉ざされています。姉の言うように、クリスチャンがへりくだる事を忘れて、福音を知っているからと言って高慢になってしまうと偽善者と見られて百害あって一利無しとなってしまう危険があるのです。
パウロはコリント教会に心の内を伝えています。7節「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。」
いったいパウロのトゲとは何か、諸説ありますが多くの人々を癒したパウロは、自分の持病は治す事が出来なかった、トゲとして自分の弱さを自覚するためだとパウロは理解していたのです。主が嫌うのは高慢、喜ばれるのは謙遜ですね。クリスチャンとは、自分達が偽善者と自覚している者、主により頼む事を知っている者では無いでしょうか?
パウロは第三の天を経験した人の話しをしますが、実は、それは彼自身の経験で、使徒の働き14章19〜20節でパウロがリステラで石打ちの刑になり、ユダヤ人たちは彼が死んだものと思い、町の外に引きずり出したとあります。 その後に弟子達は彼が起き上がってまた町に入って行くのを目撃するのですが、恐らくこの石打ちの刑の時にパウロは第三の天、主によってパラダイスに引き上げられて、人間が語る事を許されていない言葉を聞いたのではないかと言われています。まさに死から蘇った経験をしたのです。天国を見てきた者ならば、それを言いふらすのが普通ですが、IIコリント12章5節「このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱き以外は誇りません。」と謙遜な態度を貫いているのです。9〜10節抜粋「わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」「私が弱いときにこそ、私は強いからです」これほどまでにへりくだってからコリント教会員に問いかけているのです。私があなたがたに重荷を負わせたましたか? 騙すような事をしましたか? 弟子テトスを送ったのも、すべてコリント教会信者達が成長するためなのだと心を込めて説明しているのです。
福音をこの世に伝えるのが難しい理由は、聞く者にとって、今までの既成概念、価値観、世間を捨てなければならない。今まで信じていたものを手放さなければ主イエスに従うことが出来ないのです。ですから反発し、無視されるのです。そして福音を伝える側もへり下り、謙遜を忘れずに、自分の言葉ではなく、主のみことばのみを伝え続けるのです。しかし、聞く者の心に主を求める気持ちを起こさせるのは、我々の仕事では無く、神の領域ですから、私達は福音の種を蒔くことに心を込めようではありませんか。
祈り
私の弱さの中に現れ、強めて下さる主イエスがいつも一緒にいて下さる事に感謝致します。どうか高慢にならないように、主の教えを喜びとし、みことばを口ずさみ者となれますように導いて下さい。感謝します アーメン
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