コリント人への手紙第ニ 11章
『敢えて誇る』 アイゾン直子
パウロは、愛するコリント教会の人たちが、偽の使徒たちによって惑わされ、キリスト・イエスの愛から離れるのではないかと心配します。偽使徒たちは、別のイエス、異なる霊、そして異なる福音を彼らに与えていました。
パウロはこれまで、自らを誇ること、自己推薦について否定してきましたが、偽使徒たちによる悪影響からコリント教会の人々の信仰を回復させるため、大胆に、キリストに選ばれた使徒であることを誇ります。
新約聖書には、偽使徒・偽教師に対する警告がたくさんあります。その人たちがキリスト教以外の宗教であるなら見分けることは簡単ですが、同じキリスト教の中に存在するから、問題なのです。別のイエス、異なる霊、異なる福音を語っていることが分かるほどに成長しているなら、問題はありませんが、まだ霊的に幼いなら、サタンは容易にそのような人たちをキリストから離すことに成功します。
教会の牧師先生もパウロと同じく、そのように霊的に幼い人たちをサタンの手から守るために、それこそ、誇りたくないことを誇らねばならないことがあると思います。
パウロは、自分が話し方は素人でも、知識においてはそうではない、「あの大使徒たち」(十二使徒たち、特に、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ(ガラテヤ2:9参照)にも劣ってはいない、と言います。
パウロは、当時エルサレムで最も高名であったパリサイ派の律法学者ガマリエルのもとで学んだ、熱心なユダヤ教徒です。彼の律法に対する知識は相当なものであったと思います。
当時の学者たちは、その報酬の額が、学者としての権威を表すバロメーターになっていたのかもしれません。しかしパウロはというと、報酬を望まず福音を伝えていました。そしてそのことが、パウロの使徒としての権威を疑う要因の一つとなっていました。
パウロ自身の働きは、マケドニア教会や他の教会の人たちの支援によって支えられていましたが、たとえ困窮していてもコリント教会に負担をかけない理由は、彼らの重荷にならないためでした。コリント教会の献金に対する消極的な態度をパウロは知っていました。しかし、献金が自発的でなければ、神が喜ばれないことも彼は知っていました。だから、そのことについて負担、つまり罪を感じないでいいように、そのことはこれからも続けると言いました。これはパウロのキリストの使徒としての誇りです。
偽使徒たちは、自分たちがへブル人であること、イスラエル人であること、アブラハムの子孫であることを誇っていたようです。しかし、それはパウロも同じです。更に彼らは、自分たちがキリストのしもべであると言っていたようです。パウロは、このことに関しては、主による十字架のあがないが、侮辱されたかのように感じたのかも知れません。パウロは狂気したように、自らの苦難の体験を語ることによって、本物のキリストのしもべの姿を伝えます。
パウロは、コリント教会の人たちを偽使徒たちの教えから守ろうと、敢えて自らを誇りました。牧会者として、偽物と本物との違いを指導する以前に、本物は自分である、と語ったところに、パウロのすごさを見た気がしました。霊的に弱くなっている人に対して、権威や知識を用いて指導するより、共に弱くなること、上から下への指導ではなく、同じ目線で歩むことで、共に霊的に成長させていただけることを学びました。感謝いたします。
祈り:愛する天のお父さま。自らを誇ることは戒められていますが、キリストの愛から離れようとする兄弟姉妹たちを守るため、また、神の栄光のため、敢えて誇ることの大切さを学びました。現代も、聖書を歪曲して利用する偽使徒、偽教師たちが活動しています。彼らのさばきについては、主よ、あなたがさばかれますことを感謝いたします。自分自身については、それらの教えに惑わされないよう、正しい聖書理解を学び、信仰の弱さを経験する時には、聖書による正しい信仰を誇りたいと思います。みことばの学びが、さらに守られますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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