コリント人への手紙 第二 9章
『献金は献身』
エルサレム教会の貧しい信者のために、マケドニアの教会員やコリントの教会員に献金をするよう呼びかけるパウロ。
解説書の中には8章を” 募金のための第一の手紙 ”、9章” 募金のための第二の手紙 ”としているものがある。
はたして”募金”だろうか? 募金と献金の意味は違うと思うし、パウロのしていることは献金のすすめだと思う。
募金は、お金が必要なヒトやコトのために、不特定多数の人に金銭を募って集めることだ。献金は、すでにいただいている神さまの恵みに対する感謝の捧げものだ。
募金は神さまが不在でも成り立つが、献金は神さまの臨在あってはじめて成り立つ。
ただし献金は、神さまの祝福を受けるための条件ではなく、神さまへの感謝だから、献金は献身のひとつとも言える。
そして献金は感謝の種を蒔くとたとえられる。だから、一方的な施しではなく、種を蒔けば収穫が返ってくる。
「種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」(10節)
献金は、神さまの祝福を受ける条件ではないけれど、パウロはその報いを大胆に語る。報酬めあての動機を良しとしている(8節)。
報酬=義の実、恵み。義の実は「あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えられるようになり、神さまへの感謝を生み出せるようになること。」(11節要約)。
心と霊が富むことだ。物質的な必要は神さまが満たしてくれる、という信頼だ。なんという充足!
パウロは献金の報酬がそれぞれの立場にあることも語る。
献金をした者たちの報酬(10〜11節前半)、献金を受けた者たちの報酬(11後半〜12節)、そして献金をした者たちと、受けた者たち、両者の間に献金を通して愛あふれる交わりの報酬が生まれること(13〜14節)。 神さまの恵みのなんたること!
パウロは9章を以下の文章で綴じる。
「ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」(15節)
献金の捧げものをはるかに超えた、神がそのひとり子を賜物として与えてくださったこと。イエスさまとイエスさまの十字架は、確かに「ことばで表せないほどの賜物」、最高のギフトだ。
ことばに表せないけれど、そのすばらしさを私たちは聖霊に導かれて心で感じ、受け取ることができる。イエスさま、感謝します。アーメン
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