コリント人への手紙 第二 5章
『十字架と新しく造られた私』
この章を読みながら、だいぶ前にホノルル教会で、ヤクザの道から足を洗って牧師になられた進藤先生の話を思い起こしました。ホノルルの入国管理で、前科があって指を欠落している彼は呼び止められて質問されて、英語も不自由で困っていた進藤牧師に、ちょうど飛行機で乗り合わせた日本人のお医者さんが助け舟を出してくれて、入国管理官に「彼は日本で有名な牧師です」と言ってくれたので入国できたとは話されておられました。
教会でのメッセージの冒頭で、ヤクザ時代には自分はヤクザの親分に命を投げ出して仕えていた、クリスチャンとなった今は、命をかけて主イエスに支えている、単に親分が替わっただけだ。と笑いながら話されておられたのを思い出しました。
そうなんです、進藤牧師だけでなく私たちも新しい親分、主人に仕える身とされたのです。
15節「キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」
なぜその様な事ができるのでしょうか? 1節「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。」
私達はもっと良い永遠の命と身体を与えられる事を、主イエスによって知らされたので、新しい親分、主イエス・キリストに仕える確信を得たのです。
少し話が飛びますが、下界と異なり神と人が一緒になれる特別な場所幕屋の構造について、出エジプト27章には幕屋は横幅50キュピト(約25メートル)x長さ100キュピト(50メートル)とされていて、長方形の周囲は300キュピット、そうして留め金や横木も指定されて、神が人と住むための条件があるわけですが、幕屋の入り口が20キュピットと定められているので、入り口の長さを差し引くと280キュピトとなります。何と人間の赤ちゃんが産まれる280日と一緒になります。ヨハネの福音書に、「ことばは神とともにあった」、というヘブル語は「神が幕屋をはった」という言葉に繋がっているそうです。幕屋自身に深い意味が隠されている事を覚えておきましょう。
コリント5章1〜4節には、地上の幕屋、これはきっと私たちの身体のことでしょうが、この幕屋を脱ぎたいとうめいており、天から与えられる住まい、永遠の身体とパラダイスを着たい、住みたいと願っていると記しています。
私たちの信じる神は、共に私たちと一緒に住みたいと心から願っておられます。エデンの園の時の様に、人間と暮らしたいのです、しかし聖なる神は、罪にみまわれた者とは一緒にいる事はできません、光の中に闇は存在できないのです。
19節「すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。」
主イエスがことばとなって私たちに和解の道を与え、十字架の死によって私たちの罪を帳消しにして下さり、信じるものは生まれ変わり、何の制約も無しに、神の幕屋に導き入れて下さいました。
祈り
何という神の奥義が、幕屋に指し示されておられることでしょう。少しでも理解できましたことに感謝します。主イエスを、神の幕屋を着ることですべてが新しくなるのですね。感謝致します。アーメン
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