コリント人への手紙第一 14章
『異言と預言』 森 宗孝
異言とは一体なんだろう? どうやら、このコリント教会では異言の賜物を重要視する者達が多かったようです。自分の限られた経験では、今まで一度も異言を聞いた経験が無いのです。そこで頭で想像し、みことばで理解しようと思います。世の中には、確かに異言を語る事が聖霊を受けた証拠と考える宗派もあるし、実際に異言を語ったと経験談を話す方にも出会った事もあります。
22節「それで異言は、信じている者たちのためではなく、信じていない者たちのためのしるしであり、預言は、信じていない者たちのためでなく、信じている者たちのためのしるしです。」
これだけでは何やらハッキリしません。
使徒の働き2章には、集まっていた信者達が聖霊に満たされて、突然他国のいろいろなことばで話し始め、しかも彼ら外国の言葉で神のみわざを語った、その結果、未信者であった3千人が信者となったと記されている。異言は解き明かされて初めて未信者の方々の信仰の成長に役立つ目的があります。
33節「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。」
そう考えると異言を語らないと聖霊を受けたことにならないと考える事は不自然だと自分は思うのです。何を言っているか理解できない異言を、話す事が目的では無いのです。初代教会が力を得るには、どうしても12使徒と一握りの少ないクリスチャンでは力が足りない事を主はご存じでした。その時に一番必要だった事は、神のみわざを多くのエルサレムに巡教のために集まってきた外国人にも伝える必要があったのです。
思い起こせば、創世記2章で、人々が天に届くバベルの塔を建てている時に、神が彼らのことばを混乱させ、互いのことばが通じないようにされた事を思えば、今度は逆に、神が聖霊によって人々が理解できるように異言を語らせ、神のみわざを広められた事は納得出来ます。こうして初代教会は聖霊の力によってエルサレム巡礼者を通じて世界に広がってゆきました。異言は信じていない者たちのための印となったのです。
今度は預言について、14章では、異言よりも愛を求め、預言する事を熱心に勧めております。
1節「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」
13章は愛の章でした、それを受けて1番大切なのは、異言よりも愛なのだとパウロは強調したかったに違いありません。そして求めるものは預言の賜物、この預言とは何なのだろうか? 字は異なりますが「予言」とは、これから起ころうとしている将来の事を言い当てる事ですね、それに比べて「預言」は神の言葉を、言葉通り預かり伝える事で、神のマスタープランを知って、それを預かり伝える事として預言を理解しますと、この世、現代でも、これから起ころうとしている神のマスタープラン。主イエス・キリストの再臨を伝える事も、ここで記されている、熱心に求める預言であると思うのです。預言は信じる者たちのためのしるしとなります。
祈り
聖書は神からの人間の救いの書で、十字架にかかり私達の罪を贖って下さった主イエスは、そこで救いが完成したのではなくて、もう一度この地に戻って来て下さり、全ての信じる者達、すでに亡くなった信者も含めて永遠の身体を与えてくださる事が神の奥義である事を感謝すると共に、この奥義、預言をこの世に伝える者として私たちを導き下さい。アーメン
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