コリント人への手紙 第一 11章
『聖餐とは何か?』
11章には、ホノルル教会の聖餐式でも用いられているイエスさまの御ことばが出てくる。
「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」(24節抜粋)
「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(25節抜粋)
聖餐式は教会の儀式・礼典の主軸だ。16世紀の宗教改革以前の中世では、数十もの儀式が行なわれていたという。しかし現在、ホノルル教会を含む大半のプロテスタント教会では「洗礼」と「聖餐」、この2つの儀式・礼典のみを行なっている。
なぜ、たった2つの儀式に淘汰されたのか? それはイエスさまが始祖として実際に行なったことが新約聖書に記されており、使徒たちも継承してきた儀式だからだ。
私たちは洗礼で救われ、父と子と聖霊の名において、神さまに所有していただいた。聖餐はすでに父と子と聖霊に結ばれていることを、実際に味わうことで神さまとより深く交わっていくための聖なる儀式だ。
「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる。」
旧約のエレミヤ31:31や、ヘブル人8:10など、旧約と新約を貫く、とても重要な神さまと私たちの新しい契約のしるしが、洗礼と聖餐なのだ。
初代教会の頃の礼拝は、共に祈り、食事をして”主の晩餐”を祝うことが中心だった。主の晩餐はイエスさまの最後の晩餐に由来し、現在の聖餐式へとつながっている。
パン=からだ、ぶどう酒=血という儀式は、さまざまな物議を起こしているようだ。1世紀のローマでは、クリスチャンたちが人食いの罪で訴えられた。戦前の日本でも、人食い宗教などと迫害された。
パン=からだ、ぶどう酒=血の解釈でも分断や対立が起こっている。宗教改革で大きな論争となったのも聖餐式だった。私たちが聖餐式にあずかると、パンとぶどう酒の実体が、イエスさまの実際のからだと血へと超自然的に変化するというローマ・カソリックの解釈と、カルヴァンなど改革派のプロテスタントが対立した。
聖餐式はクリスチャンだけしかあずかることができないのか? 洗礼前の人でもパンとぶどう酒を口にしてもいいのではないか? 欧米や日本の聖職者たちの間で、クローズとオープン、中間派、それぞれの激論が今も続いているという。
コリントの教会でもはめを外した暴飲暴食と、貧富の差の中で主の晩餐が行われていたため、主の晩餐の誤用、乱用をパウロは強く指摘している。
「だれでも自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」(28節)
さもないと、自分自身に対するさばきを食べ、病気や死を早めるかもしれませんよとパウロは警告している。
その通りです、神さま。飽食の時代、私は食いしん坊で度を越しがちです。本来、いのちを養うべき食べ物が、肉の欲求になりませんよう、今日のディボーションでいましめます。また、聖餐式の意味をより深く味わえますようこれからも導いてください。
イエスさまのお名前で感謝して祈ります。アーメン
追記/ 私は『ハイデルベルグ信仰問答』や『聖餐とは何か』(R・C・スプロール)を参考書にしました。今週の関先生のクラスではこの11章を学び、『聖餐の豊かさを求めて』という共著を教えていただきました。これから読んでみます。
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