コリント人への手紙第一 10章
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光のためにしなさい。」(1コリント10:31)
この10章では、偶像に献さげられた肉をどう扱うかということが語られている。*偶像に献げられている肉を食べることは、その偶像への礼拝行為に参加することになる。それはその偶像の背後にいる悪霊と交わることだから食べてはいけない。
*ただしその肉が市場に出回った時には食べても良い。
*しかしある人が、その市場で売っている肉が偶像に献げられた物であることを知っていてそれを知らせたなら、その肉を食べてはいけない。
*なぜならその人は、クリスチャンになる以前にその偶像礼拝をしていたので、その人の良心が傷つくからだ。
ややこしい展開だが、要は、その肉を食べるかどうかの判断基準は、隣人への愛だということだ。
「自分の利益を求めず、他の人の利益を求めなさい。」(10:24)
「ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。」(10:32、33)
コリントの教会には、様々な問題が山積みだった。パウロは、その問題に対する答えを書いている。そして13章がコリント教会への答えのエッセンスだ。結局、大切なのは「愛」だということなのだ。自分を愛するように隣人を愛する。この真理が、すべての問題の答えとなる。
自分自身は、その肉を食べても問題はない。しかし、もし隣人を躓かせるなら食べないという選択をする、ということだ。
その選択をする根拠は、「キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。」(ローマ書14:15)とあるように、その一人の人の存在の尊さにある。
ある教会では、聖餐式にブドウ酒を使っていた。しかしアルコール依存症の方が礼拝に来られるようになった。アルコール依存症の方は、たとえ10年間アルコールを断っていても、10年目に一口のアルコールを口にすると元に戻ると言われている。その教会は、その人のために、聖餐式のブドウ酒をブドウジュースに変えた。
何が大切なことなのか。伝統、規則、先例も大切だ、しかしもっと大切なのは、キリストが命を捨ててまで愛した「その人」なのだ。
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