「真実永遠の愛」
皆さんは「こんなはずではなかったのに」と思ったことはおありでしょうか?
仕事がうまくいかなかった時?愛する人をなくした時?財産を失った時?
マラキ書は旧約聖書時代の最後の書であり、ホセア記から続く12小預言書の最後です。時代背景は、イスラエルの民の捕囚は終わり、第二神殿はすでに建てられ十数年後、ペルシャ帝国の支配下、民の信仰がバックスライドしている状態。礼拝も捧げ物もいいかげんにしている時代。
マラキ書1章1節は「宣告」で始まる。ヘブル語ではもっと重い意味があるそうです。重荷、警告と裁きなどです。また、マラキとは「わたしの天使」の意味があり、天から遣わされた使者という意味だそうです。(中川健一先生ハーヴェスト・タイムより)
「わたしはあなたがたを愛している。ー主は言われるーしかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。」(2節抜粋)
思った通りにならなかった時、または計画通りにことが進まなかった時、イエス様を信じる前、私は「なぜなんだ」と自問自答、そして答えはなく自責感と虚無感に包まれた。
私たちクリスチャンはこういう時「今はきっと神様の時ではないんだ、じゃあ時が来るまで待とう」と考えます。でも待っている間が長いと信頼が薄れ始め疑いが生じ、「もしかして私は愛されていない?」という思いまで生じる。マラキの時代はそういう時でした。
神様が愛しているよ(2節)、と言っておられるのに民はどうやって愛してくださってるのですか? という問い。はてはて、昔の自分を見ているようでもどかしい。
神様はあなたを、そして私を愛している、と言って下さっている。それは2000年以上経った現在においても確実そして真実の愛、絶対に裏切らない愛です。たとえ、人間が裏切っても神様は裏切らない、確かな愛です。愛には希望があります。そして神様はお一人お一人に計画を持っており、それは平安と将来と希望を与えるためのものです(エレミヤ書29章11節から)。こう約束されていますから、神様の愛を受け今日も一歩ずつ生きましょう。
祈り:
愛する天の父なる神様、
わたしはあなたの愛を何度も疑ったことがあります。耐えられない試練にあわせることはしない(IコリントI10章13節)と約束してくださっていますが、自分には耐えられないと感じたことも多々あります。でもあなたの愛を一度なりとも体験すると信じざるをえません。それほどまでに圧倒的な愛を信じその愛の中にわたしは生き続けたいです。
現在試練の中を生きておられる人々に「あなたがいつも共にいて下さる」ということを、わかる形で知らせてあげて下さい、このわからない私にして下さったように。神様、あなたは愛するひとり子をお与えになったほどに、世を愛された(ヨハネの福音書3章16節より)。その愛に感謝します。この世のすべての人があなたを畏れ崇めて賛美しますように、どうぞ愛を注ぎ続けて下さい。尊い御子イエス様のお名前により祈ります。アーメン
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