使徒の働き6章
『良い種と毒麦』
福音がますます広がりエルサレムの弟子の数が増えていく中、最初の殉教者は、この6章から8章にかけて記されている弟子のステパノである。彼は12使徒の1人ではありませんでした、信仰と聖霊に満ちた者の1人でしたがいわば一般信徒の奉仕者です。この石打ちの刑罰にかかった時に使徒はどうしていたのか。弟子の1人のステパノが刑にされるべく捕らえられた時に肝心の12使徒はどこで何をしていたのだろうか。一緒に弁護する事はできなかったのだろうか。疑問はありますがきっとこれから続く数日のデボーションにはステパノが中心になると思うので、今日はステパノ以外の弟子に目を向けましょう。6章5節の改宗者ニコラオに焦点を当てます。
さて主イエスはこの世を表して、マタイ13章で種まく人の話、毒麦の話、からし種の話をされました。マタイ13章38節「畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。」と今の世は良い種も毒麦も一緒に育ってゆくことを説明されました。実にこの使徒6章にある弟子たちの中にはステパノのような聖霊に満ちた御国の子もいると思えば、毒麦とされる悪い者の子がいるのです。諸説あって確かではありませんが、ここにあるニコラオから異端の教えニコライ派が出てきた可能性も否定できません。ニコライ派とは講壇に立つ役職にある者は特別で一般信者を支配し、選ばれた者だけが特別であって他の者を支配するカルト的な教えです。現代でもそのような教えに立っている団体はかなりありますね。ニコライ派についてはヨハネの黙示録2章6節エペソ教会に対しての評価と同じく15節ペルガモン教会への注意の中で出て来ています。初代教会からこのような異端が混じり込んできた事がはっきりしているので毒麦は弟子の数が増える中にいたことに間違いはないでしょう。
しかし弟子の広がりに弊害がある事だけを見て悲観視するだけではありません。使徒6章7節「こうして、神のことばはますます広がっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また祭司たちが大勢、次々と信仰に入った。」なんと今までイエスに対抗していたユダヤ教の祭司たちも大勢クリスチャンになったと言うのです。これはなぜかと思いますが、十字架の主イエスが亡くなられた直後にエルサレム神殿の聖所と至聖所の間の分厚い幕が上から引き裂かれたのを覚えておられますか。この時に神殿で勤めていた祭司たちは自分達の目でこの出来事を見たのです。なぜこのような事が起きたのか考えないわけにはいられません。祭司仲間の中でも色々と話し合った事でしょう。先輩や恩師に相談しても答えは見つかりません。そのような祭司たちがきっと主イエスを神のこと信じ始めてキリストの弟子となったに違いありません。そうでなければどうして祭司がクリスチャンになるでしょうか。福音は色々な方法で広がり続けました。
このようにして弟子の中でも良い種も毒麦も一緒に育っているのがこの社会です。それではどうやって見分けたら良いのでしょうか。良い木は良い実を悪い木は悪い実を結びます。
その人がどんなに素晴らしいことばを語っても実がなっているのかを見る。果たして愛があるか、喜びを持ち平安であり、人には寛容で親切、善意を持って誠実かどうか、柔和な性格で自分の感情を自制できている人が良い木であって、言う事とは反対に敵意を持ち争い、人を妬んだり、そねみ、すぐに憤って、悪仲間を作り、教会を分裂したり、分派を作る者は悪い木でやがて来る最後の審判の時には、焼かれてしまう運命にあります。このニコラオがもしもニコライ派となっていったとしても、初めはステパノと同じように信仰に厚く聖霊に満たされてたと思うのです。それが段々と主イエス中心から自己中心の世界に移ってしまい他の人を裁くようになっていったのではないかと思うのです。弟子の足を洗ってあげる心、砕けた心を失って、他の人と自分を比較して裁くようになってしまいました。私たちも主イエスに常に従ってゆこうとする自分もいれば、そこまではできないとする自分もいるのです。ニコラオのように他人を裁き出す事がありませんように
祈り
渋柿に甘柿を接木すると甘い柿の実がなるそうです、しかしそれでも根っこから育ってくる枝からは渋柿ができてしまうように私たちの根には罪があります。どうか主イエスに繫がりながら良い実がなりますように、元の根から出てきます枝を切り払いください。主に繋がり続けることができますように、心が弱い自分を助けて下さい。アーメン
Comments