使徒の働き3章
『霊的まなざし』
生まれつき足の不自由な男(4章に40歳を過ぎているとある)が、ペテロとパウロを見て施しの物乞いをした。彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
「するとペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストによって立ち上がり、歩きなさい。」(6節)
するとたちまち立ち、歩き出した。使徒の働き、最初の御業と癒しである。
生まれつき歩けなかった男は40余年、足が不自由な物乞いを唯一の収入源として生きてきた。当時の寿命でいえば老齢だ。他の職業などできるはずはない。歩けるようになるより、施しの金銀の方が欲しかったのではないだろうか。
またこの時、足の不自由な男に信仰はあったのだろうか? ペテロの福音説教の第一声で街は湧き上がり、何千人もの人がバプテスマを受けた。足の不自由な男も、その光景を見聞していたはずだ。男に信仰の自覚はなかったかも知れないけど、すでに聖霊さまが働き始めていたのではないだろうか。だからペテロたちと目を合わせることができた。イエスさまの方向を向く準備ができかけていた。
ルカ福音などの中でイエスさまは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と何度もおっしゃっている。ただ信仰は自分が頑張って手に入れるものではなく、神さまから与えられる恵みだ。私が神さまの方向を向くと、神さまが双方向の交わりに応答して信仰を授けてくださる。
信仰があるかないか天秤にかけるのではなく、あるようなないような拙い信仰の芽ぶきの時からでさえ、聖霊さまは寄り添っていてくださる。イエスさまが父なる神さまにとりなしていてくださる。
あれかこれかの単眼ではなく、あれもこれもの同時進行の複眼でなければ、聖書は理解できないことがあると思う。三位一体のリレーションも複眼というか、人間の領域を超えた、はかり知れない神さまの領域なんだと思う。
欲しいものは金銀だったかも知れないけれど、足の不自由な男に必要だったのは、イエスさまに出逢うこと。だから男が立って歩けるようになって真っ先にしたのは、賛美しつつ神殿に入って祈りを捧げることだった。神さまの御心にかなう必要は、充分に満たされたのだ。
こうしてディボーションをしていると、思わぬ聖書箇所が示される時がある。今日の3章では、4節と12節に出てくる「見つめる」ということばだ。
4節ではペテロが足の不自由な男を「見つめて」、「私を見なさい」と言った。
12節では、「どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」と言った。
4節のペテロは霊的な目で足の不自由な男を「見つめた」。そしてイエスさまの証人としてのペテロを「見なさい」といった。
反対に、奇跡を目撃した人々は、人間の特殊能力のようにペテロを「見つめた」。
聖霊さまの力で、私も「見つめる」ということばを味わうことができました。
神さま、聖霊さまに助けられている私を感じます。ありがとうございます。でも霊的な目で見つめることができない自分もいます。肉的な思いが強くなった時、聖霊さまの力を借りて、立ち止まり、静まり、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と告白できるように導いてください。イエスさまのお名前で感謝して祈ります。アーメン
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