哀歌5章
最後の哀歌となった。哀歌5章は全体が主なる神への祈りであり、主語が「私たち」で記されている。「私たち」という言葉が21語も書き記されているのは実に興味深いことである。哀歌には、主からの応答が全くない。一方的な「私たち」からの呼びかけで最後は祈りで終わっているのである。著者は、祖先の犯した罪の為に神の裁きにあったことを認め、それを十分受け止めながら、神の憐れみを願って祈っているのである。悔い改めて真剣になって祈り懇願するのである。
20節(一部抜粋)「なぜ、いつまでも私たちをお忘れになるのですか。」
21節(一部抜粋)「主よ、あなたのみもとに帰らせてください。」
著者は、主はいつくしみ深く、主の憐れみはとこしえまでも、主は決して見放されることはなさらないこと、等々を十分に知っていたことでしょう。だから、22節で大胆に主に祈ることができたのである。
「あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ。」22節
自分の犯した罪で悲惨な状況にあった時に、つまり、自業自得の人生のなかにいた時にもこの著者のように大胆に祈ることができるだろうかと問われるところである。しかし、ある解説者によると、神は、私たちの再生の願いを厚かましいとは思われない、又、神の深い愛に甘えることが許されていると言われている。これが神と私達の関係に深く繋がっていくことではないだろうか。
祈り
愛する天の父なる神さま。御名を心からほめたたえます。短い哀歌でしたけど多くのことを示して下さって心から感謝します。自業自得のなかにいても厚かましく祈り、悔い改めて、あなたの深い愛に甘えていくことができますように導いて下さい。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
Comments