2022年9月19日 ディボーション

哀歌3章


『主に望みを置く』

「主はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。」 (25)

 3章は、哀歌の中で一番長い章です。哀歌は、エルサレム崩壊とバビロン捕囚を経験したユダの残れる者たちに向かって、罪がもたらした悲惨な出来事を忘れないよう、ヘブル語のアルファベット順に書かれているそうです。日本でいう数え歌です。ヘブル語のアルファベットは全部で22、それがそれぞれ3つずつ使用されているので、全部で66節となっています。

 エレミヤは自らを、「主の激しい怒りのむちを受けて苦しみにあった者」と呼んでいます。彼は主のことばを預かった者でしたが、だからと言って、神の怒りから逃れられたわけではありませんでした。背信の民と共に受けたその苦難について彼は、「私の苦しみとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ」と語ります(1-20)。

 神に従う歩みは、時に辛いだけなのかもしれません。それでも、主を信じて従い続けるためには忍耐が求められました。エレミヤは神からのメッセージを語りましたが、誰も彼の言葉に耳を傾けてはくれませんでした。そして今や、エルサレムは崩壊し、ユダの民は捕囚に、自らも囚われの身となりました。

 なぜ、自分だけが、と思われるような状況にありながらもエレミヤは、自分の身より、ユダの民の身を案じます。自分より、将来のイスラエルの民を案じます。このエレミヤの姿に、キリスト・イエスの御姿が重なる思いがします。

 困難と苦しみの中にある民に対してエレミヤは、神の民は主の恵みを待ち望む、と励まします。なぜなら、主のあわれみは尽きることがなく、主はいつくしみ深いお方だからです。また主は、苦しむ民を、いつまでも見放しておられるようなお方ではないからです。主は、たとえ悲しみを与えられたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれんでくださいます。主は、人の子らを、意味もなく、苦しみ悩ませることはないのです(21‐36)。

 このことは、教会時代を生きる私たちにとっても、励ましになります。この地上に生きて生活する以上、苦しみや悲しみから逃れることはできません。しかし、それらは意味のないことではない、と言われます。神の栄光のための苦しみや悲しみであると考えるなら、主を信じて待ち望むことこそ、私たちに求められている忍耐なのだろうと思います。

 すべての事は、主が命じられたこと、とエレミヤは歌います。わざわいも幸いも、主の御口から出たことであって、それに対して不平を言うなら、それは人間の罪のゆえだというのです。わざわいであろうと、幸いであろうと、主に立ち返り、主を仰ぎ見よ、と歌うのです(37‐41)。

 

 主は、主に背いた民を赦しはしませんでした。主は、怒りを身にまとい、ユダの民たちを追い、容赦なく殺されたのです。そして彼らを、諸国の民の間で、ごみ屑とされました(42‐54)。神の民として選ばれたがゆえのさばきではありますが、これは、想像を絶する状況です。イエスの十字架以前の神のさばきというのは、本当に厳しいです。

 

 苦難が続く中、それでもエレミヤは「主よ」と呼び続けました。そうしてついに、主は彼の声を聞かれ、答えてくださるのでした。主は「恐れるな」とエレミヤに言われました。御声を聞いたエレミヤは、主に訴え始めます。神の民を苦しめた敵に報復してください、呪いを下し、地上から根絶やしにしてください、と訴えます(55‐66)。


 この訴えの通り、バビロン帝国は後に滅亡します(ダニエル5)。エレミヤの訴えが御神に届いた、という捉え方もあるかと思いますが、これら一連の出来事はすべて、神のご計画の成就のために必要なさばきでありました。ただ、エレミヤの訴えは、信仰にもとづく訴えであり、それを神は喜ばれたと思います。

 訪れる困難や試練が、神の戦いであるなら、それは神ご自身が戦われ、さばきをくだされます。しかし神の戦いを、人間自らの考えや力で戦おうとするなら、それは神への不信仰となり、罪を犯すことになります。

 そのため神は、「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって呪ってはいけません。」(ロマ書12:14)とあります。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」(ロマ書12:19要約)と言われます。

 世の中は不公平に出来ており、それが大小様々な戦いを生み出していて、留まることがありません。簡単に人をさばいてしまうし、神に頼る前に行動を起こしてしまったりもします。その結果、肉体的、霊的に痛み、悲しみ、遂には自らの意思で、滅びの道を選び取ることもある世の中です。

 

 エレミヤの涙は、イエス・キリストの涙です。神の声に耳を貸さず、滅びに向かう民をご覧になって、涙を流されます。あわれみ深い神は、不安になる私たちに、「恐れるな」と語られます。神に訴えるなら、神が戦ってくださいます。だから何事も恐れないでよいことが分かります。神に望みを置いて生きていくなら、この不公平な世の中にあっても、心には希望があり、平安があるのです。

 

祈り:愛する天のおとうさま。私のような者を愛し、守ってくださることをありがとうございます。不平を言う前に、人をさばく前に、それらすべてを御前に訴える習慣を付けることができますよう、助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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