エレミヤ書48章
『恵みに至る神のさばき』
「しかし終わりの日に、わたしはモアブを回復させる。‐主のことば。」(47節要約)
46章より、諸国の民に対する預言が、エレミヤを通して語られています。48章は、モアブの民に対する預言です。
モアブ人とは、アブラハムの甥であるロトと、彼の姉娘によって誕生したモアブの子孫たちです(創世記19:37)。彼らは、イスラエルの民の背信をさばく民として用いられたこともあり(士師記3:12)、またイエスの家系に名を残したルツを生み出した民でもあります。
しかし、アブラハムを祖先とする民でありながらも、彼らは主から離れ、偶像神ケモシュを礼拝しました。その高慢さと(7)、平安の享受(11)、肉による自信(14)、そして主への高ぶり(29)は、イスラエルの神によるさばきを招きました。
この章には、モアブの地名が細かに記述されています。この記述によって、不信仰な民に対する神のさばきの恐ろしさを垣間見ることも出来ますが、逆に、神が愛するご自分の民を知っておられ、またその民を、ことごとくきよくしようとする神の配慮を感じることも出来ます。事実、47節には、「しかし終わりの日に、わたしはモアブを回復させる」、と書いてあります。
神は、そのきよさのゆえに、罪をそのままにしておくことの出来ないお方でありますが、同時に、ご自分の民を決して見捨てず、必ず、再び、御許に戻される神なのです。
イエス・キリストの十字架以降、信者であるなしに関わらず、この世において、神による直接的な滅びのさばきは無くなっています。ただし、キリスト・イエス再臨の時には、不信仰な民に対する神のさばきが再び始まります。
聖書には、御子を信じる者はさばかれない(ヨハネ3:18)、なぜなら、御子を信じる者はすでにきよいからです(ヨハネ15:3)と書いてあります。このことは、御子を主と信じる者たちすべてに与えられている恵みであります。
しかし、だからといって、罪を犯してもよい、ということではありません。信者であるなら、犯してしまった罪は、必ず示されます。たとえキリスト・イエスの血潮によって、過去、現在、未来におけるすべての罪が赦されているとしても、真の悔い改めを求めないなら、その罪は残り、サタンに居場所を与えてしまうことになります。
また信者でないなら、犯した罪へのさばき、白い御座のさばきが待っています。それは永遠の滅びへのさばきです。このことは、キリスト・イエスの再臨以降に必ずやって来ることが預言されています。
神は、モアブという、性的に乱れた国民性を持つ民であっても愛し、用いられました。このことから、神はその人が良い人だから救うのでも、愛されるのでもないことが分かります。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4要約)
神の凄まじいばかりの怒り、そのさばきを学ぶとき、その罪の深さや大きさに関わらず、罪を罪として受け止め、告白することがいかに大切であるかを思わされます。神の目に映る自分を想像するなら、罪の中に生きることなど、最早できないからです。
祈り:愛する天のおとうさま。あなたの目に映る自分を生きることができますように。罪の中に留まる日など一日としてないよう、たとえどのような罪であっても示し、悔い改めへと導かれますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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