2022年8月2日 ディボーション

エレミア書 7章


「生き方と行いを改めよ」


 エレミアの生涯は明瞭であった、二十歳前後の若者の時に神の召命を受け同じ事を繰り返して語り続けた、神に代わって神のことばを語り続けた生涯は、主イエスの姿を思い起こす。その後恐らくエレミアが60歳年代の時に恐れていたバビロン捕囚が起こり、神の愛するエルサレムは預言通り滅びてしまう。エレミアの言葉は真実ですが聞く者にとっては痛みを伴う辛辣なみことばとなってしまうのです。

ヨハネ7章18節「自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」

 現代の多くの教会で語られるメッセージは、耳に心地よく、自分達のフィーリングを良くしてくれるものが多いかもしれません。しかし、自分の心を掴んだ牧師先生の説教は辛辣であり、人目を恐れない。語りかけるのは聖霊を受け今の生き方と行いを改めよ、みことばを喜びとし昼も夜も口ずさめ、もしくは教会員の役目は伝道、伝道の出来ないという者は教会に必要ないし、伝導のない教会であるなら無くなっても良い明言される。初めてこの様メッセージを聴く教会に来られた方はビックリするに違いない。聖霊に満たされたメッセージは私達に痛みを伴う。


 エレミアへの主のことばも激しい 7章16節「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ。」イスラエルの神は偶像礼拝に怒りを爆発させる。罪の根源は真の神から離れた事を選んだ民が、その罪を理解せずに人の作った偶像の神を拝んでしまう。本来選ばれた民のその放蕩姿を真の神が嘆くことからくる怒りはすざましい、エレミアに祈ってはならないと命じるのだから。しかし妬みの神は慈悲の神でもある、主はユダヤの民を根絶やしにしてはならない、滅ぼし尽くすことはないとも語られているからだ。23節「ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め。』」神から離れてゆく選択も、神に従って歩む道も人の自由意志だが分かれ道のどちらか一つを選ぶ事しかできない。我々も毎日気がつかずにいくつもの選択をしている、仕事に行く事も、休む事もできるし朝食を食べるか抜くか、仕事仲間を赦すか逆に恨むか、背中を叩き励ますか、顔を叩き傷つけるか、全ての選択に真の神の導きを元にするか、自分で判断するか。預言者に選ばれるとこのような選択はない、一直線の道なのだ。世間が反対しようが、家族に見放されようが、患難に会おうが、ただただ一直線の神の真っ直ぐな道を頑固に、根性を持って歩む預言者の道に若き祭司の息子であるエレミアが選ばれてしまった。

 黙示録に恐ろしい場面が出てくる、黙示録14章19〜20節「御使いは地上に鎌を投げて、地のぶどうを刈り集め、神の憤りの大きな踏み場に投げ入れた。都の外にあるその踏み場でぶどうが踏まれた。すると、血がその踏み場から流れ出て、馬のくつわの高さほどになり、千六百スタディオン(約300キロ)に広がった」エルサレム神殿は2つの谷に囲まれている、ひとつは神殿の東側のケデロンの谷、ここはイエスがローマ兵に捕らえられたゲツセマネの園につながる谷ですが、もう一つ南から北西に向かうヒノムの谷、今は枯渇している谷で主イエスの時代はいわばエルサレムのゴミ焼き場であったようです。さかのぼってエレミアの時代は幼児犠牲がなされ偶像の神が祀られていた忌わしい場所でした。記憶が確かではないのですが主イエスを裏切って木で首吊って自殺したイスカリオーテのユダの死体は最終的にはこの谷に投げ込まれたと聞いた記憶があります。ゴミを四六時中焼き、死体が投げ込まれたこの谷からゲヘナのイメージが出来たようです。

 黙示録とエレミア7章32〜33節を比べます。「それゆえ、見よ、その時代が来るー主のことばー。そのとき、もはやそこは、トフェトとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。人々はトフェトに、隙間がないほどにほおむる。この民の屍は、空の鳥や地の獣の餌食となるが、これを追い払う者もいない。」エレミアもヨハネ黙示録も終末の悲惨さを伝えています。救いの御手は常に我々に伸ばされていますが、神の義がまず示され、それから主の愛で救われるのです。


祈り

主の日が近づいていると実感するのは自分だけでしょうか。年老いたせいでしょうか。自分の罪のせいでそう思うのでしょうか。幼い孫達の輝いている目を見るとこれから先の世が向かっている患難を思うと心が痛みます。しかし主よ、父なる神は最後まで多くの人を救おうとして神の裁きこの世に下す事をお待ちになっていることに感謝致します。まだまだ日本では至る所で偶像礼拝がされており主イエスを知る機会もない方々もたくさんおります。どうか我々主イエスを愛する者たちが一人でも多くみことばを伝え、主の平安を与える機会が増えますように我々を導き下さい。アーメン

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