エレミア書21章
「命の道と死の道」
この章にあるユダ王国、ゼデキヤ王は南王国最後の王だ。エルサレムはまさに風前の灯、預言されていた通りにバビロン王ネブカドネツァルが攻めてくる直前の場面がこの21章。
預言者エレミアは、善王であったヨシア王の時代に召命を受けたとあるので、それからすでに40年ほど経っている。恐らく彼が60歳ごろに起きたであろうバビロン捕囚が目の前に迫っている。それまでユダ王国は4人の王が立てられた。善王のヨシア王は31年の良き治世に続くのは、わずか3ヶ月在位のエホアハズ王、彼はエジプトの圧力で廃位され、エホアキム王とその子エホヤキンと続くが、すでにバビロンはエホヤキンをバビロンに反したと民と王を捕えてバビロンに移し、エホヤキンの兄弟ゼデキヤを王とした。しかしゼデキヤ王も治世11年後に、バビロンに反したとしてネブカドネツァル王自ら兵を率いてエルサレム(紀元前587年)を焼き払う運命にある。
エレミアが生涯かけて主の裁きを語っても、家族も、故郷の者たちも、祭司も王も聞く耳を持たない。自分も日本にいる家族に主の救いを語っても、友人に語っても聞く耳を持たないと思う時がある、皆さんもそのような経験があるだろう。エレミアの場合は、スケールが大きく相手は国家的に耳を塞いでいる。
先に学んだエレミア章6章16節「主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。」
現代の私たちの場合はどうでしょうか、主イエスはわたしが道だと示されました、その道は平坦で歩み易い道には見えません。世間の皆が認める広い道の方が良く見えるのです。神に選ばれた民は、神の道は歩まないと言ってしまい偶像礼拝に耽りました。
ゼデキヤ王がエレミアに助言を求めてきてもエレミアは処罰を覚悟で主のことばを伝えます。21章6節「この都に住むものは、人も家畜もわたしは打つ。彼らは激しい疫病で死ぬ。」王や祭司たちが怒りエレミアを処罰するのも目に見えるようです。続いて8節「あなたは、この民に言え。『主はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。」エレミアはバビロンに降伏して生きるか、反抗して死を選ぶかの道を示されるのです。主の憤りが火のように燃えて焼き尽くすとエルサレムの悪行の裁きを告げておられます。
旧約聖書で何度も何度も繰り返されて我々に見せられる場面は、神は義なるお方で罪を持つ人間とは一緒に居ることができない事、しかしそのような我々を愛して止まないのも神であり、それは選ばれた民ユダヤ人を通じて主の義と愛を伝えようとされている歴史書です。
もしも創造主なる神様にあえて弱点があるとすれば何かと思い回らすと、その弱点は私たち罪で泥まみれの人間を愛し、父なる神に背いても愛し、自分の方に立ち返るようにさらに愛してくださることではないかと思うのです。詩篇16編11節「あなたは私に いのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びが あなたの御前にあり 楽しみが あなたの右にとこしえにあります。」主は第一に良いお方であり、私たちを限りなく愛しておられます。しかしその義のために世の罪を裁かざるをえないお方です。
祈り
主よ あなたは私たちにいのちの道を、ご自分の命と引き換えに示してくださいました。いのちの道がはっきりと目の前に示された事は同時に死の道も明白にされたこととなります。主イエスを信じるいのちの道を歩みだしたことに感謝致します。この章にありますように主の道を歩まない方々にどうかいのちの道には満ち足りた喜び、心の平安と幸せがあることを我々を通じて示すことができますように助けて下さい。 アーメン
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