2022年8月13日 ディボーション

エレミヤ書18章


『生ぬるい悔い改め』


 先週は神さまの契約と預言について黙想した。今日は18章の、とくに「陶器師の手の中の粘土」について黙想したい。

 神さまはエレミヤに、陶器師のところに行って、仕事の様子を見てきなさいと命じられた。言われた通りエレミヤは陶器師がろくろを使って粘土で器を作り、気に入らないと壊して作り変えるようすをつぶさに見学した。神さまはエレミヤが見て学ぶ、実地訓練をさせてくださっている。預言者に語らせるだけでなく、預言者を育ててもくれるお方なのだ。いいなあ。

 で、エレミヤは陶器師の仕事を見ながら神さまから語られる。

「見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」(6節抜粋)

 陶器師の手の中の粘土を目の当たりにしたエレミヤは、神さまが絶対的な主権者であることを確信する。そして確固たる思いで預言する。

「さあ、それぞれの悪の道から立ち返り、あなたがたの生き方と行いを改めよ。」(11節抜粋)

 悔い改めを預言するのだが、陶器師の手で、器が自由に作り替えられていくさまを目撃したことも重要だ。つまり神さまとイスラエルの関係は、運命的に定まってしまったものではなく、イスラエルの人々は個人個人、神さまと応答をする責任があるということだ。

 仮に偶像を捨てたとしても、捨てただけでは悔い改めにはならない。新約のユダがイエスさまを銀貨三十枚で売り、後悔して銀貨を神殿に投げ込んで逃げたが、イエスさまに悔い改めはしなかった。そこがペテロとの違いなのだ。

 エレミヤの時代のイスラエルの人も、神さまの前に出て、正直にありのままに人格的な応答をくり返すことこそ必要だった。なのに逆恨みして、エレミヤ暗殺まで企むイスラエル。

 イザヤも陶器師のたとえをよく使っていたなあ。

「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。」(イザヤ64:8)

 悔い改めはごめんなさいと謝っておしまいではない。神さまの前でじっくり検証しながら、どう直していくか計画を立てて実行することだ。神さまの前にこそ私の居場所はある。


 さて18章は13節以降、かなり難解になる。19節からはエレミヤの復讐の祈りはヒートアップして激烈になる。個人的な怒りではなく、神の怒りを自らの怒りとしているのだろうけれど、ちょっと引いてしまいそうな激しさだ。


 神さま、私の悔い改めは生ぬるいですね。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。」黙示録3:15〜16のみことばが響きます。このみことばに、なんとも言えない愛を感じます。大好きなみことばで、エールとして受け取ります。どうか、生ぬるい私をなん度でも口に入れて吐き出してください。なん度でもなん度でも。

 イエスさまのお名前で感謝して祈ります。アーメン

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