2022年8月10日 ディボーション

エレミヤ書15章


「神とエレミヤの問答」


主は私に言われた。たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこ

の民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」(1節)


 神の怒りと嘆きが表されている。モーセは、旧約聖書において律法の代表と言われ、サムエルは、預言者の代表と言われていた。かつて彼らは罪深いイスラエルのためにとりなしをしてきたが、神は、もはや、彼らのとりなしがあっても耳を貸すことはないと言われるのである。 すべてはマナセの治世に、イスラエルにあらゆる偶像崇拝を持ち込んだためである。見捨てられたユダヤ人の運命、つまり、彼らは戦争の悲惨さの中で、無援の敗北を味わうということが事細かに語られているのである。七人の子を儲けることは、女にとって祝福を意味したが、もはやその祝福も失われる。又、神に立ち返ろうとしない者たちの運命は、神から永遠に分離されるのであると語られている。

 エレミヤは神の使命として生きていくことにすっかり疲れ切ってしまっていたのである。

 18節で、「なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私のうち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」その語りは、エレミヤの不満の表れであった。エレミヤは、神はどんな時でも正しいおかたであるということは十分わかっている。だが、エレミヤの素直な自分自身を神にぶっつける行動は立派なものであると共感せずにはおれない。神にぶつかっていかなければ、本当の答えは見いだせないのである。神は、そのようなことを私たちにも望まれておられることではないだろうか。

 すっかり疲れ切ったエレミヤに、神は、19節(一部抜粋)で、「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。」と語られている。

 つまり、不平不満を言うのでなくて神の言葉を語るなら、その言葉が無に帰すことはない。さらに、神は、21節で「わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す。」と言われている。神の聖域に生きる若年のエレミヤにとっては、耐えがたいことが多々に起こることだけど、そのような時にも、神は常にエレミヤと共にいてくださり悪しき者から救ってくださるおかたなのである。



祈り

愛する天の父なる神さま。

今日の御言葉を心から感謝します。心に思っていることを素直にあなたに打ち明けて、正しい道へと導いてください。すべてを委ねて、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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