ヨハネの福音書 1章
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」1節
66章という長いイザヤ書が終わって、今日から新約のヨハネの福音書に入る。著者は、「雷の子、怒りの子」と呼ばれていた人が、イエス・キリストによって「愛の人」に変えられた弟子のヨハネである。ヨハネは、イエスさまから愛された弟子だった。
ヨハネは、主イエスを「ことば」と表現し、天地創造の時からおられたことを示している。また、「光」とも呼んで、5節で「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」と、語っている。そして、バプテスマのヨハネが、水でバプテスマを授けるようにと遣わされてイエス・キリストを証しする人物だということも明らかにしている。バプテスマのヨハネが、エルサレムから遣わされた祭司やレビ人に質問攻めにあった時のことだった。彼が語ったことは、神に遣える者としての、へりくだり、謙遜さ、そして、神さまの真理を確信をもって叫んでいた。その姿は、彼の信仰のあらわれであった。この世には、自分のことをキリストと呼んでいる人がたくさんいるということである。そのようなことを言っている人々に、「バプテスマのヨハネのことを思い出せ!」と言いたくなる衝動に駆られる。
イエスさまが、二人の弟子にことばを交わされた時のことは、関牧師の学びの時を思い起こされた。イエスさまは、ついて来る二人の弟子に質問した。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊りですか。」38節(一部抜粋)
二人の弟子は、答えにならない答え方をしたのである。自分も、もし彼らと一緒にいたらやはり同じような答え方をしたと思う。果たしてどれだけの人が、イエスさまの質問に答えることができるのだろうかと思うところである。イエスさまの問いかけは、私たちの生き方を問う言葉だと解釈されている。つまり、「なにを求めて教会に来ているのか」「なにを求めてイエス・キリストを信じているのか」ということである。
「イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」」39節(一部抜粋)
そこだけを読んでいたら単なる宿泊先にとどまってしまう。ある有名な牧師がいつも言われるように、「聖書は文脈を読み取らなければならない。」ということが聞こえるようだ。どういうことかというと、「私と一緒に来なさい。私と一緒に歩みなさい。そうすれば何を求めて生きていけばいいのかが分かる。」という解釈である。神さまについていかなければ、自分中心では決して目的は見いだすことができないのである。すべては、イエス・キリストの十字架の贖いによるものである。
祈り
愛する天の神様。
ヨハネが私達に伝えたいことをたくさん示して下さったことを心から感謝します。あなたからの誘いに「来なさい。そうすれば分かります。」と呼びかけられたら、いつでも素直に従っていくことができますように。自分の求めているのは何かをしっかりと言い表すことができますように導いてください。感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
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