イザヤ書66章
『終末での出来事』
イザヤ書の最後となったこの66章を読み比べると、聖書全体の締めくくりの66巻目である黙示録の臭いがする。
22節「わたしが造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くのと同じように、ー主のことばー あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く。」
ここには黙示録と同じように新天新地が示されていますが、ここでの対象は黙示録のように全ての人ではなく、限られたイスラエルの12部族の中の祭司であるレビ族に直接宛てたみことばです。しかし前の節には、ある者を選んで祭司とし、レビ人とすると主はいわれておられますから単にレビ族ではなくとも、主が選ばれる者も含むと理解しました。イザヤが語る相手が黙示録とは違うものの、選ばれた者と終末の出来事であることは共通しています。
もともとレビとは(結ぶ)というヘブル語で、モーセの兄のアロンの家系で祭司職として主に選ばれた12部族でも特別な地位であったようです。この祭司職の説明であるレビ記は祭司の礼拝順序の記述だけで終わらずに霊的価値に富み、神のご性質を独特な方法で啓示されている。祭司として選ばれたレビ族が神との交わりにおいて生きる道を示し、すべての国民に神の贖いを伝える役目を与えられていました。
レビ族のことを英語ではレビは「Levi」と書きますが、この名前に気付いた人がいるかもしれません、アメリカの有名ジーンズに「Levi’s」リーバイスがあります。ロシア系ユダヤ人のリーバイさんがアメリカに移住して、初めはニューヨークで仕立て屋を始め、やがてゴールドラッシュで栄えるサンフランシスコに移り、金鉱堀りの男達に丈夫で長持ちする生地で作ったのがこのジーンズの始まりだったようです。彼は恐らくユダヤ人として自分達はレビ族だったと教え育ったのかもしれません。ジーンズの後ろポケットに大きくLevi’sと入れたのは印象的です。果たして昔の西部開拓者はこのジーンズを履いてレビ記の事を思ったのでしょうか。
救い主イエスのおかげで、聖別されたユダヤの民だけでなく、我々異邦人も主イエスを通じて実は接木をされて選ばれた民となり神の子として下さったというのが聖書の教えです。
話しがまたそれますが、接木といえば実際にミカン農園で説明を受ける機会がありました。例えば渋柿の木があって、そこの甘柿の枝を接木すると、そこから甘柿の実ができるのです。接木には技術が入ります、しっかりと接木をつなげて縛っておきませんと樹液が流れずに枯れてしまいます。
主イエスは我々を選ばれた民に上手に接木してくださり、樹液である聖霊を流し込んでくださいます。もとの根は罪の残る渋柿ですが主イエスを信じ繋がりますと甘柿となって実がなってくるのです。言わば誰でも,主イエスの作ったLeviジーンズを履けばレビになれるのです。これから訪れようとしている終末時代にはユダヤ人レビ族出身でなくとも主が選ばれる者は祭司として主に仕える事になるのかもしれません。しかし接木され聖霊を受け主を信じること、主を着ることが条件となる事でしょう。
しかし、どのような者を主は選ぶのでしょうか? 2節の後半「主のことばーわたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。」これを読んで主イエスの山上の垂訓を思い浮かべませんか?
マタイ5章3節「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
この心の貧しい者とは、自分に自信が満ち溢れて胸を張って生きている者ではなく、神のみことばの前に自分の罪を思い、心が砕かれ神を求める者達にとって将来の約束された新天新地である神の御国への乗車券であり条件なのだと思います。聖霊を受ける条件は、絶えず祈り、悔い改めて、心が砕かれてへりくだる事でしょう。
詩篇1編2〜3節「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」
祈り
日々の生活の中でいつでも心が砕かれた者になることが出来ずに自分の力に頼っている姿を鏡の中に見てしまいます。主イエスによって接木されているにも関わらず、悪い根っ子から別の枝が生えてきてしまいます。どうか性根の悪い枝を切り払い、接木から良い実を結ぶ事が出来ますように。
主のみことばを昼も夜も口ずさむように心がけます。アーメン
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