エレミヤ書 2章
『さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。』2:2
エレミヤの預言活動の始まりである。神は、イスラエルの民の3つの罪を指摘されている。神が民をエジプトから助け出された恵みを忘れてしまった罪、偶像礼拝の罪、傲慢の罪を述べられたのである。神の恵みを忘れ、偶像礼拝にはしり、傲慢になる、などはまさに自己中心性の表れである。自己中心になると、本当の神を忘れさせてしまって、自分の都合のいい偶像の神をつくりあげてしまうのである。
私たち現在の生活においても言えることではないだろうか。私自身に最もわかりやすく指摘されるところは、自分がすべてうまくいっている順風満帆の時は、神の恵みを忘れがちになるということである。苦難の道をあるいていた時に、純粋な気持ちになって、神にへりくだり、謙遜になっていたことを忘れてはいけないということである。神は、聖書の中でなんども述べられているのである。
旧約時代、新約時代を読んでいて、この三つの罪は、イエスさまを除いて誰もが犯した罪であった。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、ソロモン、等々、その他の人々は罪を犯したが、彼らは、みな神の前にひれ伏し自分の罪を認めて、神に赦されたのである。特に示されたことは、旧約時代には民の前で語られるイエスさまがまだおられなかった。そのかわり、預言者が出て神のことばを告げたが民は聞き入れなかった。その為に神の怒りを引き起こすことになったのである。新約の時代になってイエスさまが神の子であるのに、ご自分を低くされて人につかえられたために、私たちは、悔い改めて、神に赦していただける特権を与えられたのである。
今の豊な生活があるのは、すべて神の憐れみによって生じたことであるということを忘れてはいけないことである。主なる神を神として、日々謙遜になって主のみことばに従っていくことである。
「あなたは言う。「私は潔白だ。確かに、御怒りは私から去った。」と。あなたが「私は罪を犯してはいない」と言うので、今、わたしはあなたをさばく。」35節
「あなたはなんと簡単に自分の道を変えることか。アッシリアによって恥を見たのと同様に、あなたはエジプトによっても恥を見る。」36節
「そこからも、あなたは両手を頭に置いて出て来るだろう。主が、あなたの拠り頼むものを退けられるので、あなたが彼らによって栄えることは決してない。」37節
神のまえで自分の罪を認めようとしない傲慢な者への結末がこのようになるのである。
祈り
愛する天の父なる神さま。
いつでも自分の罪を認めて、あなたの前に悔い改めることができますようにさせてください。
貧しかった時に純粋な気持ちになって祈り続けたことを忘れずに歩ませてください。イエスさまの十字架の恵みを絶えず心の糧とすることができますように導いてください。あなたに、すべてをお委ねして、感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
Comments