2022年7月25日 ディボーション

ヨハネの福音書20章

 

『見ないで信じる』

 

「イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」」(29)

 

 遂に、イエス復活の朝を迎えました。     

 

 イエスのよみがえりを、マグダラのマリアから聞いたペテロとヨハネは、走って墓に向かいました。墓に先に着いたのはヨハネでした。彼は、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えましたが、墓の中には入りませんでした。

 次にペテロが到着します。ペテロは墓に入り、丸めてある亜麻布と、イエスの頭を包んでいた布が、離れた所に置いてあるのを見て、帰って行きました。ペテロの後に、もう一度今度は墓に入ったヨセフは、それを見て、信じました(1-10)。

 

 ヨハネの福音書には、マグダラのマリアと御使いの場面については書かれていませんが、マタイ、マルコ、ルカの福音書には、その記述があり、彼女にはイエスがよみがえったことが告げられています。つまり、マリアは「イエスの遺体が無くなっています」と伝えたのではなく、「イエスは、よみがえられました」と伝えたのです。

 

 そのことを聞いてすぐに、飛び出したのがペテロです。ヨハネが墓に行った、という記述は他の福音書にはありませんが、この章から見るに、二人で走っています。

 墓に先に着いたのはヨハネでした。たぶん、彼のほうが若かったため、足が速かったのではと思われます。

 

「イエスはよみがえられた」という情報を聞いたヨハネは、先に墓に着くと、その入り口から中を覗き、亜麻布だけが残されていることを見つけます。しかしまだこの時には、イエスの復活を信じてはいません。

 続いてペテロが来て墓に入り、自分と同じものを見たのを確認すると、今度は自らも墓に入って「そして見て、信じた」のです。

 

 ヨハネは「雷の子」と呼ばれ、その気質には激しいものがありましたが、イエスを主と信じて以降は、冷静で慎重な性格に変えられていたことが、これらの記述から垣間見ることができます。

 

 墓に行ったのがペテロだけではないことを記述しているのは、ヨハネだけです。これは当時、証言は、二人または三人の証人の証言によらなければ立証されないため(2コリント13:1)、ヨハネはこの記述を通して、イエスのよみがえりの信憑性を高めたのでは、と思われます。

 またヨハネは。イエスが語られていたご自身のよみがえりの話についても、冷静に慎重に聞いていたと思われます。だから最初に、墓の入り口から、遺体が無くなっていることを見ながらも、次は墓に入って、もう一度それを確かめています。

 

 対してペテロは、熱血で行動派と言われます。「イエスはよみがえられた」という情報を聞くや否や、あれこれ考えないで、とにかく墓に走ったのです。そして、墓に入って、確かにイエスの遺体がないことを知ったにもかかわらず、その出来事に驚きながら帰った、と書かれています(ルカ24:12)。ヨハネのように、墓の入り口から、身をかがめるようにして見ることはせず、大胆に墓に入って状況を確認しています。しかし、空になった墓を見ても、イエスの復活を信じることは出来ずに、ただ驚いて帰って行ったのです。

 

 この二人の行動から学べることは、どちらの性格が良いのか、という比較ではなく、どちらも神は愛される、ということだと思います。神は、時には慎重に、時には大胆になることを私たちに求められます。どちらか、ではないのです。神の召しに従って行くとき、聖霊の働きによって、慎重な人は大胆に、大胆な人は慎重に変えられるのです。神が、聖霊を通して、そのようにしてくださるのです。

 

 この章には、どのようにして弟子たちが、イエスの復活を信じたかの記述があります。ヨハネは亜麻布とイエスの頭を包んでいた布を見て信じ、マグダラのマリアは「マリア」と呼ぶ声を聞いて信じ、ペテロを含むその他の弟子たちは、手と脇腹に傷があるイエスを見て信じ、そしてトマスは、イエスの脇腹の傷に触れて信じました。

 

 後に聖霊に満たされて活躍する弟子たちも、この段階では、視覚、聴覚、触覚をもって、イエスが復活したことを信じました。しかし、彼らに求められたのは「見ないで信じる」信仰でした。

 

 教会時代に生きる私たちには、イエスが送られた聖霊によって、イエスが私たちの罪のために十字架にかかり、墓に葬られ、三日目によみがえられたことを信じることができます。見ないで信じる信仰には、聖霊の助けが必要なのです。

 

祈り:愛する天のお父さま。イエス復活の日の弟子たちの行動は、信じることができないで、自らの思いに走って右往左往する自分自身が示されました。日々聖霊に満たされ、見ないで信じる信仰の上に立ち続けることができますよう、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

閲覧数:28回

最新記事

すべて表示

エレミヤ書 5章 『主のさばきと憐れみ』 エレミヤ書5章も4章に続いてイスラエルのさばきについて預言している。 さばかれる理由は、公正を行い、真実を求める者がいないということである。でも、神は、一人でも公正を行い、真実を求める者がいたら、エルサレムを赦そう、と言われているのに、彼らは、主は生きておられる、と偽りの誓いをするのである。そして、悔い改めようとしないで、偶像を神としたり、姦淫をする国に、

エレミヤ書 4章 『厳しいながらも恵みの招き』 3章の22節の途中から、4章は始まっているとも言える。エレミヤの悔い改めの祈りだ。とても素直に心の内を吐露した祈りだ。 「今、私たちはあなたのもとに参ります。」(3:22抜粋)のエレミヤの悔い改めを受けて、神さまは語った。(4:1)、 「イスラエルよ、もし帰るのなら、わたしのもとに帰れ。」と。 神さまは、恵みの招きをしても良いと応答してくださったのだ

エレミヤ書3章 「主に立ち返れ」 この3章においては、神とイスラエルとの関係が婚姻関係で表現されている。イスラエルの偶像礼拝は、婚姻関係における姦淫の罪とみなされる。 この霊的姦淫の罪のある社会には、必ず実際の姦淫の罪があり、それに伴う夫婦関係の破綻、家族崩壊が見られる。なぜなら神との関係は、人間関係に直接に影響を与えているからだ。まさに現代社会のあり様である。 エレミヤは南ユダ王国を舞台に活動し