ヨハネの福音書15章
「わたしの愛にとどまりなさい。」9節一部抜粋
ぎっしり詰まっているイエスさまの教えの「愛」についてヨハネが書き残しておきたい気持ちがまるで伝わってくるようだ。ヨハネの福音書は何度読んでも心に響くものである。
15章も弟子たちに対するイエスの教えが続く。ぶどうの木にとどまるたとえをとおしてイエスさまの戒めが書かれている。イエスさまは、ご自分をぶどうの木、枝を弟子たち、父なる神を農夫にたとえておられる。ぶどうの枝が豊かに実を結ぶために、枝は幹にとどまっていなければならない。私たちの信仰そのものの実態である。しっかりと主にとどまっていくことによって、主の戒めを、互い守りに愛し合うようになっていくのである。
私は、この主の戒めを守り続けているだろうかと思った時に、答えは、「NO」である。人間関係ほどむつかしいものはない。クリスチャンであろうとなかろうと。人間関係がすべてうまくいっている順風満帆の時は、自分は主の戒めを守っていると自己満足をするのである。しかし、その逆の時はどうなのか。果たして偽善者ぶって互いに愛しあっているというのだろうか、と思わされるところである。でもそんな時でも、主を愛している確信があるなら、又、主にとどまることができるのである。そして、お互いが悔い改めて赦し合える特権をあたえてくださるのである。神に選ばれたユダヤ人は、神を憎み、愛することができないなら火に投げ込まれるということを教えておられるのである。神の選民であろうと、クリスチャンであろうとなかろうと、神を憎むなら火に投げ込まれるという結末になるということである。
主の愛にとどまっていくなら主を愛し、喜んで主の戒めを守ることができるということである。それが「互いに愛し合うこと」である。アーメン
祈り
愛する天の父なる神さま。御名をほめたたえます。
あなたの戒めを守れない時も多々にある自分です。お赦しください。その時には又、しっかりとあなたの幹につなっがていくことができますように導いてください。あなたの愛の中に日々しっかりと、とどまっていくことができますようにたすけてください。感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
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