ヨハネの福音書14章
『主を愛するとはその戒めを守ること』
この章は2つの内容がある。まず主イエスは父なる神に至る道である事を伝えて次に聖霊を与える約束をする。今日はもう一つの焦点、主イエスを愛することはどういう事か考えてみたい。
主イエスを知る事が天の父なる神を知ることであり、その主を愛することは主のことば、戒めを守る事、それが愛していることだと記されている。わたしを愛さない者は、わたしのことば、戒めを守らないとはっきりと主は言っておられる。
しかしこの主が示す戒めは一体何をさしているのだろうか。例えばテサロニケ人への手紙 第一5章16〜18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがtに望んでおられることです。」
常に喜ぶ。患難の中でも喜ぶというこの戒めを守っているか、もし主が語りかけてきて、「あなたは出来ているか」と聞かれると、いつも喜べない自分、絶えず祈っていない自分がいて、これがこの14章での主の戒めということであるならば、戒めを守っていない事になり、自分はイエスを愛していないこととなってしまう。主よあなたを愛していますが、この主が望んでいることを守れない自分がいます。
それともここの戒めとは十戒を指しているのだろうか。主なるイエスは律法を完成されるために来たとも言われました。でもこの14章で主イエスが示されている戒めは前後の文脈を通じて理解する必要があるのかもしれません。
14章15〜16節「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」
ここでのわたしの戒めとは何か、そして助け主の役目がこの14章の焦点と思いました。戒めの意味は前の13章34節だと思います。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」これが14章で主イエスのおっしゃている戒めであろうと思うのです。
しかし新しい戒めと言われている点で引っかかり、さらに疑問が湧いてきます。イエスはこれは新しい戒めと言われるのですがすでに旧約聖書 レビ記19章18節「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。」にあるのに、なぜこれが主イエスの新しい戒めとなるのでしょう。レビ記と比較するとレビ記の記載は自分自身を愛するように隣人を愛せとしているのに対しイエスの新しい戒めはイエスを信ずる弟子達に対して、わたしがあなたがたを愛したように互いに愛せと[イエスが愛したよう]にしなさいという点が異なります。主イエスが弟子達を愛したこの愛は今までにない愛でこれが新しい戒めなのです。
しかもこれは第一の戒めである、自分の全てを持ってをもって神を愛する事が最初であって、その後に隣人を愛するという順番になります。神を誠心誠意愛する事ができると、神からの助けによって隣人を主イエスが愛したように愛する事が初めてできるのです。
主イエスの愛とはどのような愛だったでしょうか。十字架の愛は主は最後の晩餐で召使いのようにひざまづいて弟子達の汚れた足を洗いました。ゲツセマネの園で捕らえられる時には、弟子達がサタンがふるいにかけようとする前に、信仰がなくならないように祈りました。十字架で全ての人の罪の贖いとなられて命を差し出されました。人の弱さをご存じなので助け主である聖霊を送られました。我々が自分自身を愛する以上に主イエスの愛は深く、この主イエスが愛したように信じる者達がお互いを愛し合うことによってこの世はイエスの愛を知ることになります。そうして我々自身ではこの愛に到達できない弱さをご存じで、助け主である聖霊を送ってくださいました。助け主である聖霊は主イエスの愛を私たちに示してくださいます。
祈り
イエス様、我々の兄弟達をあなたが愛されたように、自分を低くし、心から祈り、その人のために自らの命をかけるまで愛することができない自分がおります。聖霊の力をかりてあなたが愛したように、その心を深く知り頂いた聖霊の助けによって愛し合うことができますように導いて下さい。
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